篁生の神社巡礼日⑧~下山の神社その2~

1.2022初詣でその2、天神様

 その2で紹介しますが、実際に最初にお参りしたのは天神様です。大庭区にあります。現在の下山は北側の早川と富士川が合流するあたりの河川敷(河原と言っていました)が発展して上沢という大きな区となっていますが、水害の多かった昔は集落とはなっていなかったようです。上沢寺という寺院はあって、水神様も祀っていたようですが。

 ですから大庭が昔の下山の北のはずれということになります。天神様はその大庭の西の丘陵にあります。下山は富士川の河川敷に水田が広がり、その平地の西側に集落があって城下町兼宿場町を形成し、その西側はなだらかな丘陵となっていて、「うやまだいら」と呼ばれて耕作地になっていました。水の便が悪いので桑畑や果樹園や畑が広がっていました。今はクラフトパークという公園やゴルフ場ができ、ほかは耕作放棄地として荒れています。天神様は集落からは坂を上がったところですが、「うやまだいら」の東の取っつきともいえるところです。

 天輪寺(てんねんじ)という消失した廃寺があってかなり急な坂道を石段の手前で右(北側)に曲がってさらに上ると十段ほどの石段があってその先に天神様があります。鳥居はありません。瓦葺きで横壁を波形のトタン板で補強しています。私が子供の頃から変わらないお堂です。

 このお堂は石段の方、つまり南を向いていません。東側を向いています。東側は土砂崩落が心配されるほどに急峻な崖と言っていいくらいな坂です。おそらくこの東側にかつては正式な参道があったのでしょう。急すぎて気が遠くなりそうです。この崖下には下山唯一の医院があったのですが、今は廃業し建物も撤去しています。

 天神様は正式には「北野天満宮」と言います。「太宰府」でも「湯島」でもなく「北野」です。京都の天神様を模したという意味でも、町の北にあるという意味でも「北野」なんですね。

 菅原道真は学問の神様。学業成就を祈願しました。還暦にして学業成就、一生勉強です。本殿を見ようと回ると正式な本殿の上にさらに屋根が乗っていました。木造の本殿は雨ざらしだと傷んでしまうのでしょうね。まわりには石の塔や祠がいくつかありました。

 道を戻らずに「うやまだいら」に上がっていって、かつて自分のうちの畑のあった荒れ地の脇を通って別の道を戻ります。

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天神様です。

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境内が狭すぎて正面から撮れません。

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本殿です。

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多分この坂に急勾配の参道があったのでしょう。

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2.八幡様

 下山の夏というと、8月16日に愛宕祭典の花火大会があり、17日に八幡様の相撲大会がありました。どちらも屋台が並び賑やかなお祭りでした。24日には日朝さんのお祭りもありましたが、こちらの方はもう私の子供の頃には寂れていました。相撲はもう開催されず、当番の集落が資料の引き継ぎをしているだけになりました。それも今はどうなっているのか。花火大会だけは今も新町区が頑張ってやっているのですが、コロナもあってこれからどうなるのでしょうか。

 次に回ったのは八幡様です。正式には「穴山八幡宮」、戦国時代下山の領主穴山氏の守り神です。ただ、「身延町誌」の神社一覧には載っていません。本国事の敷地内にあり、お寺所属の神社はカウントしないのかも。

 立派な石垣に中に本殿だけが鎮座しています。南隣には本町区の道祖神があります。

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村の鎮守です。

 

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隣にあるのは地区の道祖神

3.愛宕神社、花火大会の神社が・・・あれ?ない。

 じゃ、産宮神さん

 次に回ったのは愛宕神社です。その途中の仲町に小さいお稲荷さんの祠が、公民館の横にあった気がしますが、子供の頃の記憶で定かではありません。確か小正月に「しゃんここ」という舞を奉納していたような。「しゃんここ」とは、しゃんここシャンシャンという合いの手を芸能の名として呼んだもので、本当は太々神楽をいうのかもしれません。小正月には各区で、本町・荒町では獅子舞、大庭では三河万歳とそれぞれ郷土芸能を催すので他地区のお祭りは見られないのでよくわかりません。

 お稲荷さんは場所がよくわからないのでスルー。

 で、愛宕さん。でもこの神社も「身延町誌」には載っていません。長泉寺の寺内にある穴山氏の守護神「愛宕堂」という扱いらしいです。「身延町誌」によれば昔、下山上沢の愛宕山に祀られていたものを明治初期に新町に移したとあります。「愛宕山」って京都っぽいなあ。そういえばちょっと離れるけど「醍醐山」もあります。お稲荷さんも下山城址からは辰巳の方角、伏見っぽい。

 しっかりお参りはしましたが、痛恨、写真を撮り忘れました。

 次に目指すのは産宮神さん。街道であった国道52号の広い道ではなく、山額、名の通り山に張り付くような集落から裾野に沿って杉山地区を目指します。

 途中、三の宮を探しているとき何度か見かけた青年を見かけました。自転車を止めて道をそれて下っていきます。このお近くには「長谷の観音」があります。子供の頃は礎石のみの廃寺でしたが、山額龍雲寺の住職さんが再建して、今は立派なお堂が建っています。でも、神社の初詣でが今回の趣旨ですのでパスします。件の青年は寺社マニアで名もない神社仏閣を回っているのかなあ、と想像しました。

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 産宮神さんは荒町から杉山へ、そして身延山へと続く昔は主要街道だった道の端にあるのですが、かなり坂がきついところです。ここは神社とはいえない本当に小さな祠です。でもなんともいえない不思議な風景を見せています。祠の周囲に何百何千という穴の空いたひしゃくが立てられているのです。

 由来所に書かれていますが、昔難産に苦しんだ若夫婦が旅の僧の教えにより祠に穴の空いたひしゃくを奉納したら無事出産できたというお話から、安産を願う人々がひしゃくを奉納するようになったということです。私もかつて二本奉納しました。知人にも何人にも紹介しました。多すぎて自分が奉納したものがどれか探してもまったくわかりません。古くなって柄が朽ちたものは開けた穴を通したひもで何十個かをまとめて吊してあります。参拝。氏子さんが注連縄を新しくしたみたいで鮮やかです。

 ここ「なにこれ珍百景」で紹介されたかなあ。

 と、三度自転車を引いた青年を見かけました。ここまで見かけると、なんか無性に声をかけたくなるのです。

 「神社仏閣に興味があるの?」

 答えは、

 「いえ、鉄塔です。」

 なるほどね、鉄塔マニアか。古い祠や神社のある場所って、人家を離れて山肌を沿って伸びる鉄塔とリンクするのかも。納得しました。

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柄杓の奉納は珍しいよね。

4.境の宮

 さて、最後に訪れたのは南の村はずれにある境の宮、そういえばこの辺を小字で宮原といった気がする。

 正式には「境の宮住吉神社」です。大阪にある住吉大社末社でしょう。住吉大社は海の神であり、和歌の神です。農業・産業の神様でもあるようで、どれが目的の創建でしょうか。海はありませんが下山は早川・富士川の遭難が多く、土左衛門も(若い人はわからないかな、水死体)もたびたび上がったというし、それなりの文化的土壌もあったようですから和歌の神様があってもいいとは思います。でも、南の境の守護というのが一番素直に理解できます。

 ここも両部鳥居です。本殿はほかの下山の神社と同じように屋根や柱で覆われています。ただ残念なことに保護されているはずの本殿の壁面が崩れて柱だけになって透けて見えるようです。

 ここで最後の参拝。

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両部鳥居です。

 

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住吉神社なのですね。

 

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5.行かなかった神社・行けなかった神社

 旧下山村は、下山村と四か村(上粟倉・下粟倉・大石野・小原島)に分かれます。四か村の神社は行きませんでした。遠いですからね。杉山の八幡神社もパス、ちょっと遠い。稲荷神社をパスしたのは先に述べましたが、そのほかに「西山石尊宮」と「八王子神社」があるようです。それぞれ穴山氏が在住の時に、未申(南西)戌亥(北西)の守護神として祀られたようです。「うやまだいら」のどこかにあるのでしょう。「身延町誌」に地図は載っているので探せるのかもしれませんが、苦労しそうです。

 そのほか「甲斐国社記・寺記」では一の宮の兼帯社として村内に「御崎大明神」「山之神」があるそうです。これもどこか、調べれば郷土史家のどなたかが研究しているかもしれません。

 「甲斐国志」には「・・・○藤森神社(同村:下山のこと)崇道尽敬天皇ヲ祀ル○鈴鹿御前(同村)大彦命ヲ祀ルト云住吉以下皆二ノ宮神主兼帯ス」とあります。省略した部分を補うと、二の宮の神主が、境の宮、天神様、藤森神社、鈴鹿御前の神主を兼帯したとのことですが、藤森神社と鈴鹿御前がわかりません。崇道尽敬天皇日本書紀を編纂した舎人親王です。京都伏見の藤森神社には藤尾社の祭神であった舎人親王が合祀されているそうです。そのゆかりの神社でしょう。鈴鹿御前は鈴鹿山に住んでいた伝説上の女性、女神だそうです。大彦命記紀に書かれた古代の皇族だそうです。よくわかりません。

 興味はそそられますが、調べる気力はわいてきませんねえ。誰か教えていただけるとうれしいのだけれど。

 さて次はどこの神社に行こうかなあ。