篁生の神社巡礼日⑩~氷室神社~

 このブログも一年以上休眠状態でした。体調がどうこうとか何かがあったかというわけではなく、単に報告できるような神社に参拝しなかったということですが。

 令和4年12月18日、久々に由緒ある神社に詣でました。富士川町平林にある「氷室神

社」です。

1.「桃源境」

  「桃源境」は中国晋の陶淵明が著した「桃花源記」に描かれた理想郷です。とある漁師が桃花の先ほころぶ川を遡ってその水源にある洞穴を通り抜けるとそこに浮世とは隔絶された里があるのでした。秦の戦乱を避けて人々はそこに移り住み、外界との交わりを絶って何百年と暮らしてきたというのです。その村はいかにも平和で皆が楽しそうに暮らしていました。漁師はそこで数日を過ごし外界に戻ったのですが、その後誰がどう探してもその村にたどり着くことはなかったというのです。陶淵明はそこに老荘思想的な理想郷を思い描いたようです。もちろん現実には、そんな理想郷はあるわけではないけれど、モデルといえる集落はあったのかみしれません。インテリの描くユートピアと、もしそのモデルがあったとしたらそこに住む人とは意識に乖離があるでしょう。平和や幸福という概念は、もしそれが満たされていたとしても、いや満たされていればいるほどその概念には無自覚であるでしょうから。まあそんなことはどうでもいいのですが、俗塵から隔絶された場所に不思議な村があるという設定は胸がわくわくします。

 山梨県に住んでいると、トンネルに近い切り立った山道を通り抜けた先に、豁然として集落が開けることがあります。私の体験ですと、南部町内船から峠(あるいはトンネル)を越えた上佐野(マムシの里)、身延町古関(こちらはとうに郡内に道が通っているので秘境感はないのですが)、市川町三郷街の帯那(トンネルを抜けた光景は印象的でした)、富士川町小室。どこも「この先何があるのか」と思わせるほど切り立った崖やトンネルの先が、急に空が開け幾十もの田畑がきれいに整備されて、民家が点在する光景に息をのんだ経験があります。もっともそれらの集落もかつては林業の集積地、宗派の大本山門前町、峠越しの街道筋、といった人々がそこに居住する理由があったようです。

 「平林」も気になっていていつか訪れたいと思っていた集落でした。落語に「平林」という演目がありますが、各地にも同類の民話があるっようで、山梨でも土橋里木氏の「續甲斐昔話集」(S11)に橘田義直氏より採話した話として「平林」が載っています。文字の読めない下男が主人の使いで手紙を届けるのですが、なにしろ字が読めないので、行く先々で宛名を聞いて、それをつなぎ合わせて「たいらばやしかひらりんか、いっぱちじゅうのぼーくぼく」と節をつけて歌うのを、気がふれたのかと不審に思った鰍沢の町役人が尋問して、目的地が平林だと判明し、無事たどり着いたという話です。ゆずの里、棚田の景観、木工品の産地として多少は知られてはいますが、ゆかりのある人でなければ余り足を運ぶ人はいない山里です。この秋に同町の舂米地区をウオーキングして、利根川沿いの道を歩きました。この道を上っていくと平林に通じるようなので、行ってみようかとしたのですが、崖は深くなり一向に空が開けそうもないので、観音様が立っているヘアピンのカーブのところで引き返しました。

 行けなかったとなるとかえって好奇心がわきます。特に今時、Googleマップストリートビューなんてものがありますから、イメージの上では行った気になれるので、是非行ってみたいという気持ちが募ってきます。さらに地図で確認すると「氷室神社」という由緒正しい神社があることも確認できました。

櫛形山は雪が積もっています。

2.平林、バス、富士川町「桃源境」

 前日の雨に続いてこの日曜日もよろしくない予報でしたが、朝起きると日が差しています。グズグズして自分の気が変わらないうちにと意を決して氷室神社を訪ねることにしました。山梨交通のバスを乗り継いで富士川町に行きます。

 富士川町は山間部に定期バスを運行しています。平日は通勤・通学の朝夕を優先したダイヤを組んでいますが、土日祭日には「ホリデー」とかで、やや遅く出かけてちょっと早く帰る、週末に実家を訪れる方を想定したようなダイヤが組まれています。私のようなフォーリナーも想定しているのでしょうか。でも私が利用した正午頃の便には乗客は私だけでした。

 富士川町立図書館のバス停から乗ります。前方には櫛形山、山腹は昨日の雨が雪だったらしく白さが目立ちます。バスから見る窓の外は澄んだ青空の下初冬の農村風景が広がります。収穫の終わった田や冬野菜の青みが見える畑、軒先に柿を吊した民家、小春日の中のんびりと時間が流れるようです。やがて人家が途絶え狭隘な谷筋へバスが進むと、過日引き返した観音様が見えました。その時はもうひとがんばりすれば平林につけたかも、などと悔やんだのですが、どうしてどうしてその先も山道は続いていました。あの時は断念して正解だったようです。

 終点のバス停に下りると、小春日だと思っていたのは車内での錯覚、空気はとても冷たい。おまけに日陰にはしっかり雪が残っています。いやいや、自分はもっと奥の木深い神社に行くんだよな、大丈夫かな、と少し不安がよぎります。それでも東の空を振り仰ぐと、「あっ富士山!」大きい。甲府盆地からだと御坂山塊や曽根丘陵の上にちょこんと乗っている富士が、山容の半分以上を顕わして悠然とそびえています。ああここは富士と対峙できるほどに標高が高いんだと実感しました。バス停は集落の外れのやや高いところにありました。「みさき」というそうです。見下ろすと、まさに桃源境、棚田が美しく整えられ、家々は密集しているわけではなく適度にパラパラとある感じです。(陶淵明の桃源境は『土地平曠、屋舎儼然』だからもうちょっと平らかな)

富士山が大きく見えます。

桃源境のたたずまい

3.鷹尾山、南高尾

 さて、氷室神社目指して上り始めます。標識では丸山林道や櫛形山登山道もこの先のようです。日陰は雪が残っていて、それがシャーベット状になっていたり、溶けて流れた後が氷になっているところもあるようでちょっと怖く、日向を選んで歩きます。五分ぐらいでしょうか、二の鳥居が見えました。各社によって違うようですが、この神社は遠い方から二の鳥居、一の鳥居と数えるようです。575の石段と行きがけに図書館でゲットした観光パンフレットに書いてありました。ああ五百何段ね、と深く考えもせず登り始めます。石段はまもなくただの坂道になり、風のそよめきも鳥の鳴き声もなく、杉木立からぴっぴっとしきりに音がします。たぶん雪が溶けてはじけた音なのかなと思います。日常では聞かない音色です。ほかは静寂。幻想的です。

 でもやがて車道に当たります、あれ、中断か。車道に従って歩きます。知らない道はこんなものかな。まあ、上がればたどり着くだろうと車道を行くと、案内板に行き当たりました。これが一の鳥居です。ここから本格的な石段上がりが始まるようです。

 ところで、この「氷室神社」はなぜそういうのでしょうか。「甲斐国志」にも「増穂町誌」にもその由来は書かれていません。名前や立地条件から察するに「氷室」があったのかな?標高1000超らしい。奈良にも氷室神社があるようなのでその末社かも。開基は奈良時代のらしく、「鷹尾山権現」として武田家や徳川家に崇敬されてきたようです。櫛形の高尾山に対して、南高尾とも呼ばれたそうです。当時は神仏習合でお寺でもあり神社でも会ったのですが維新の神仏分離令によって神社としてのみ存続しました。「鷹尾山 氷室神社」という山号寺号ならぬ山号社号はそのゆえんでしょうか。

二の鳥居

 

日陰には雪が残っています。

 

 

案内板

4.過酷な石段

 車道を上がっていくと一の鳥居に行き会います。一の鳥居からは例の石段です。見上げただけでも息を絶する勾配です。こりゃ、五百段てのは半端じゃないのかな。

 

一の鳥居です。山号社号は珍しいね。

 

ため息が出ます。五百段。

 いや、なめてました。いけどもいけども石段は続く。所々にある1ルメートルほどの踊り場の石灯籠も慰めにはならない。還暦過ぎの老躯にはつらい。

 やがて見えたのは、鳥居。あれ、一の鳥居より前?ゼロの鳥居かな。そうは言わずに赤鳥居と呼ばれるようです。両部鳥居で新しい感じ。

 鳥居をくぐって振り返ると、ピキピキとした雪解けの音も消え風に静かに舞う雪の粉がきらきらと杉木立の間にきらめいているのでした。思わず息をのむ光景でしたが、スマホの写真では伝えられないかな。静寂の極み。

赤鳥居、両部鳥居です。

 

まだまだ続く石段😢

 

写真だとわかりづらいけれど降り落ちる雪が日にきらめいています。

 やがて見えてきた建物。そうとはわかってはいたけど、この随神門がゴールの拝殿ならいいのにと思ってあえぎながら登りました。随神も心なしか無表情で冷たい。石段はさらに続きます。

髄神門

 

5.拝殿到着

 クラクラになりながらやっと到着。ひょっとしたら今までで一番苦しい参拝だったかもしれません。やっとのことで拝殿の階(きざはし)に座って10分くらいは息を整えていたと思います。センサーがあって私を感知したのか録音された雅楽がしめやかに流れます。リピ-トして何回か流れました。今時ですね。

 人心地ついて参拝。

 拝殿左手に渡殿でつながる神楽殿は庇が見事。

 境内を散策します。絵馬が掲げられていますが、それ以外に模造紙の貼られた大きな絵馬状のボードが三つあって寄せ書きのようにいろんなメッセージが書かれています。初詣での時に参拝者が思い思いに書いたのでしょうか。拝殿右手には池がしつらえてあって橋がかけられていますが、橋の上は冷たいのでしょう雪が積もっています。水車もかけられていますが凍っているのか動いていません。それでもすごく手入れのされた境内です。きちんと管理されているのでしょう。どこからともなく雪解けの流れの音が潺潺と聞こえてきました。

拝殿にたどり着いたときはもうヘトヘトでした。

 

立派な神楽殿です。

 

寄せ書きの絵馬

 

由緒書です。

 

6.本殿・大杉

 拝殿の右手を回って本殿を伺いました。雪を戴いた屋根の連なりは美しい。さらにその奥にはご神木の大杉があります。道がわからず斜面を直登します。この杉は県指定の天然記念物です。樹高は45メートル圧巻の巨木です。見上げるとまさに「天を衝く」という形容がぴったりです。と、そこでスマホのバッテリーがアウト。減りがはやっ!寒すぎたのかなあ。写真が撮れなくなりました。それどころか連絡も取れません。低電力モードに切り替える暇もなくダウンしました。

本殿

 

本殿と拝殿を背後から。

 

大杉を撮ったところでバッテリーがアウト。

7.その後

 もっと画像で報告したかったのに・・・という残念な気持ちと、連絡手段が途切れた焦りで帰路を急ぐことにします。道なき道ですので、必死に斜め歩きをして「随神門」までたどりつき、そこから数十段下ると林道と交差します。そこからは車道に従って下りました。車道も雪は残っているのでスリップに注意しながらバス停まで下りました。

 1)みさき耕舎 バス停の脇にある食堂兼体験施設です。2002年にオープンした養蚕農家をイメージしたおしゃれな建物です。午後一時を過ぎていて、遅めの昼食をとりました。かけそばセットを注文。かけそば(ねぎ、天かすの薬味)、天ぷら(かぼちゃ、たまねぎ、青物)、梅のおにぎり、カボチャの煮物、コーヒー、大学芋で1000円はうれしい。カボチャ天は甘くしっとりとして絶品。にぎりたてのおにぎりもごはんがほかほかで、かけそばと交互にいただくと冷えた体にしみこむようです。窓に面したカウンター席で富士を目の前に食後のコーヒーを啜ると満ち足りた気分になりました。テラス席もあり、夏はそちらもいいかな。売店には地元の野菜が並んでいましたが持ち帰るにはかさばります。カップに入ったゆず味噌を一つ購入しました。

 帰り際に公衆電話がないかお店の方に尋ねると、電話を使わせていただけました。最初から電話を貸してくださいと言えばいいのにね。今時お町でも公衆電話はありませんよね。

 2)散策、バス停 帰りのバスは3時半。一つ手前のバス停まで歩いて行き、周辺を散策することにしました。たしか郵便局があって、バスの待合所があって、商店があって、その上が小学校の跡地で体育館らしきものがあったな。歩き出すとかなりの急な下り坂です。棚田が広がるゆえんでしょう。穏やかな日差しですが少し風が出てきたようです。それも心地よい。待合所(正式には櫛形山登山道平林休憩所というらしい)について中をうかがっていると私の母ぐらいの年齢のご婦人が話しかけてきました。ご近所の商店(今は営業していないそうです)の方で、待合所を定期的に清掃していてその片付けにきたそうです。何しにきたか尋ねるので氷室神社に参拝に来たというといろいろ話してくれました。

 かつては大晦日というと大勢に人が列をなして参拝してこと。ご婦人のお子さんは、私と同年代のようですが、中学生の頃度胸だめしだといって毎晩9時になると氷室神社まで走って行ったこと。これは半端じゃないことです。石段だけで500段、さらにそこまでも急坂で1キロ以上はありそうですから。年配の宮司さんが亡くなられていまは近くの若い方がなさっていること。そのほか集落のことやご家族のことなど様々なことを語ってくださいました。

 ご婦人がお客様が来るのでとご自宅に戻られたので、集落内のお寺やお宮をちょっと訪ねようかと歩き始めましたが、今度は登り坂。非常にきつい。足にも違和感を感じて、ああ俺も年だなと思わざるを得ませんでした。地図を頼りに稲荷神社と日蓮宗の徳林寺をお参りしてバス停まで戻り平林を後にしました。

 車を運転しないこともあって一日がかりのプチ旅行といった趣でしたが、心地よい疲労に身を包まれながら帰途につきます。今夜のお酒はおいしそうだ。

篁生の神社巡礼日⑨~松陰神社~

 先日東京に行って参りました。外出制限はやや緩んできたとはいうものの、まだまだコロナの感染が危惧されていて、どうかとも思ったのですが、家族と会う予定もあり意を決して行きました。

 行くと欲をかくのでしょう。町中が日常のように流れていくのに促されて、自分も歩きたくなり、翌日もちょっと東京散策をしました。選んだのは「世田谷線」。かつては玉川電鉄としてかなりの路線を持っていたようですが、今は三軒茶屋から下高井戸までの約五キロの小さな路線です。

 そこにあった「松陰神社」を紹介します。

1.いいなあ商店街

 「世田谷線散策切符」は340円で一日乗りたい放題の切符ですが、一区間150円なので3回以上乗ればお得です。これを利用しました。

 松陰神社前で下車。踏切を渡って神社に通ずる通りは「松陰神社通り商店街」。その名の通りです。なんか昭和を感じさせる商店街。米屋・八百屋・ワイシャツも仕立屋・肉屋(コロッケ屋)・酒屋・・・いい感じの商店街です。

 商店街の最後の角、「松蔭塾」は御利益がありそうですね。
 さあ、参拝です。

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松陰神社通り商店街

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塾の名前も松蔭

2.維新の原動力

 吉田松陰にコメントを求められると難しい。坂本龍馬高杉晋作となると、その行動の可否は論ぜるのですが、思想的バックボーンとなるとちゃんと勉強しないと、どこからか指弾されかねないから。

 ただ、維新に影響力が絶大だったというより、影響力が絶大だった人々が維新を成し遂げたということだった、という気がします。微妙な言い方ですが。

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3.参拝します

 案内板は完璧。迷うことはないです。松陰神社は由緒書きによれば松蔭の墓所に神社を建立したとのことです。文字で書いてある案内板の横にタッチパネルの案内板がありました。やっぱり都会だなあ。案内板がタッチパネルとは。田舎だと野生の猿に壊されるよ。

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今は由緒書も案内板もタッチパネルなんだ!

 神楽殿、御神輿の倉を過ぎます。雨戸を開けないのはまだ早いからでしょうか、十時過ぎです。それとも月曜日だからでしょうか。日曜営業の施設は月曜日は休業が多いです。

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月曜日のせいか戸は開放されていません。

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御神輿が入っている?

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松陰先生像その1

 吉田松陰って小柄だなあ。虚弱な感じもするけど、どうしてみんなこの人に心酔したんだろう。魅力的でもあるけれど、怖い感じもする。

4.参拝

 拝殿は広い。すごい団体が大勢で祈祷してもらってもへっちゃらかな。

 そっとうかがった本殿は高野槙の向こうにたたずんでいました。

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拝殿です。

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本殿です。

5.松下村塾

 社殿の右手に復元された松下村塾がありました。国士舘大学に復元された物を移築したようです。正式な講義の場所は八畳、増築された講義の場所は7.5畳もしくは9,5畳。その狭さがかえって当時の情熱を想起させます。

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松下村塾(模造)です

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松陰先生像その2

 松陰先生像その2です。向こうに見えるのは拝殿。こちらの方が古そう。

5.墓所

 松蔭のお墓に向かいます。石塔がいっぱいあります。明治の元勲たちが崇拝していたのでしょう。

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墓所に行くには鳥居を二つくぐります。

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新しい花が手向けられていました。

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6.何を願うのか

 吉田松陰は情熱的な方だったと思います。時代を動かした英雄だったとは思います。よかれと思ったその正義感は間違いないものでしょう。

 のんびり世田谷線を旅していても何千キロ向こうの砲火が聞こえてくる気がします。松蔭先生ならなんていうのかなあ。同胞にしても異胞にしても「殺しちゃだめだよ」と言ってくれるでしょうか。

篁生の神社巡礼日⑧~下山の神社その2~

1.2022初詣でその2、天神様

 その2で紹介しますが、実際に最初にお参りしたのは天神様です。大庭区にあります。現在の下山は北側の早川と富士川が合流するあたりの河川敷(河原と言っていました)が発展して上沢という大きな区となっていますが、水害の多かった昔は集落とはなっていなかったようです。上沢寺という寺院はあって、水神様も祀っていたようですが。

 ですから大庭が昔の下山の北のはずれということになります。天神様はその大庭の西の丘陵にあります。下山は富士川の河川敷に水田が広がり、その平地の西側に集落があって城下町兼宿場町を形成し、その西側はなだらかな丘陵となっていて、「うやまだいら」と呼ばれて耕作地になっていました。水の便が悪いので桑畑や果樹園や畑が広がっていました。今はクラフトパークという公園やゴルフ場ができ、ほかは耕作放棄地として荒れています。天神様は集落からは坂を上がったところですが、「うやまだいら」の東の取っつきともいえるところです。

 天輪寺(てんねんじ)という消失した廃寺があってかなり急な坂道を石段の手前で右(北側)に曲がってさらに上ると十段ほどの石段があってその先に天神様があります。鳥居はありません。瓦葺きで横壁を波形のトタン板で補強しています。私が子供の頃から変わらないお堂です。

 このお堂は石段の方、つまり南を向いていません。東側を向いています。東側は土砂崩落が心配されるほどに急峻な崖と言っていいくらいな坂です。おそらくこの東側にかつては正式な参道があったのでしょう。急すぎて気が遠くなりそうです。この崖下には下山唯一の医院があったのですが、今は廃業し建物も撤去しています。

 天神様は正式には「北野天満宮」と言います。「太宰府」でも「湯島」でもなく「北野」です。京都の天神様を模したという意味でも、町の北にあるという意味でも「北野」なんですね。

 菅原道真は学問の神様。学業成就を祈願しました。還暦にして学業成就、一生勉強です。本殿を見ようと回ると正式な本殿の上にさらに屋根が乗っていました。木造の本殿は雨ざらしだと傷んでしまうのでしょうね。まわりには石の塔や祠がいくつかありました。

 道を戻らずに「うやまだいら」に上がっていって、かつて自分のうちの畑のあった荒れ地の脇を通って別の道を戻ります。

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天神様です。

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境内が狭すぎて正面から撮れません。

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本殿です。

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多分この坂に急勾配の参道があったのでしょう。

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2.八幡様

 下山の夏というと、8月16日に愛宕祭典の花火大会があり、17日に八幡様の相撲大会がありました。どちらも屋台が並び賑やかなお祭りでした。24日には日朝さんのお祭りもありましたが、こちらの方はもう私の子供の頃には寂れていました。相撲はもう開催されず、当番の集落が資料の引き継ぎをしているだけになりました。それも今はどうなっているのか。花火大会だけは今も新町区が頑張ってやっているのですが、コロナもあってこれからどうなるのでしょうか。

 次に回ったのは八幡様です。正式には「穴山八幡宮」、戦国時代下山の領主穴山氏の守り神です。ただ、「身延町誌」の神社一覧には載っていません。本国事の敷地内にあり、お寺所属の神社はカウントしないのかも。

 立派な石垣に中に本殿だけが鎮座しています。南隣には本町区の道祖神があります。

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村の鎮守です。

 

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隣にあるのは地区の道祖神

3.愛宕神社、花火大会の神社が・・・あれ?ない。

 じゃ、産宮神さん

 次に回ったのは愛宕神社です。その途中の仲町に小さいお稲荷さんの祠が、公民館の横にあった気がしますが、子供の頃の記憶で定かではありません。確か小正月に「しゃんここ」という舞を奉納していたような。「しゃんここ」とは、しゃんここシャンシャンという合いの手を芸能の名として呼んだもので、本当は太々神楽をいうのかもしれません。小正月には各区で、本町・荒町では獅子舞、大庭では三河万歳とそれぞれ郷土芸能を催すので他地区のお祭りは見られないのでよくわかりません。

 お稲荷さんは場所がよくわからないのでスルー。

 で、愛宕さん。でもこの神社も「身延町誌」には載っていません。長泉寺の寺内にある穴山氏の守護神「愛宕堂」という扱いらしいです。「身延町誌」によれば昔、下山上沢の愛宕山に祀られていたものを明治初期に新町に移したとあります。「愛宕山」って京都っぽいなあ。そういえばちょっと離れるけど「醍醐山」もあります。お稲荷さんも下山城址からは辰巳の方角、伏見っぽい。

 しっかりお参りはしましたが、痛恨、写真を撮り忘れました。

 次に目指すのは産宮神さん。街道であった国道52号の広い道ではなく、山額、名の通り山に張り付くような集落から裾野に沿って杉山地区を目指します。

 途中、三の宮を探しているとき何度か見かけた青年を見かけました。自転車を止めて道をそれて下っていきます。このお近くには「長谷の観音」があります。子供の頃は礎石のみの廃寺でしたが、山額龍雲寺の住職さんが再建して、今は立派なお堂が建っています。でも、神社の初詣でが今回の趣旨ですのでパスします。件の青年は寺社マニアで名もない神社仏閣を回っているのかなあ、と想像しました。

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 産宮神さんは荒町から杉山へ、そして身延山へと続く昔は主要街道だった道の端にあるのですが、かなり坂がきついところです。ここは神社とはいえない本当に小さな祠です。でもなんともいえない不思議な風景を見せています。祠の周囲に何百何千という穴の空いたひしゃくが立てられているのです。

 由来所に書かれていますが、昔難産に苦しんだ若夫婦が旅の僧の教えにより祠に穴の空いたひしゃくを奉納したら無事出産できたというお話から、安産を願う人々がひしゃくを奉納するようになったということです。私もかつて二本奉納しました。知人にも何人にも紹介しました。多すぎて自分が奉納したものがどれか探してもまったくわかりません。古くなって柄が朽ちたものは開けた穴を通したひもで何十個かをまとめて吊してあります。参拝。氏子さんが注連縄を新しくしたみたいで鮮やかです。

 ここ「なにこれ珍百景」で紹介されたかなあ。

 と、三度自転車を引いた青年を見かけました。ここまで見かけると、なんか無性に声をかけたくなるのです。

 「神社仏閣に興味があるの?」

 答えは、

 「いえ、鉄塔です。」

 なるほどね、鉄塔マニアか。古い祠や神社のある場所って、人家を離れて山肌を沿って伸びる鉄塔とリンクするのかも。納得しました。

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柄杓の奉納は珍しいよね。

4.境の宮

 さて、最後に訪れたのは南の村はずれにある境の宮、そういえばこの辺を小字で宮原といった気がする。

 正式には「境の宮住吉神社」です。大阪にある住吉大社末社でしょう。住吉大社は海の神であり、和歌の神です。農業・産業の神様でもあるようで、どれが目的の創建でしょうか。海はありませんが下山は早川・富士川の遭難が多く、土左衛門も(若い人はわからないかな、水死体)もたびたび上がったというし、それなりの文化的土壌もあったようですから和歌の神様があってもいいとは思います。でも、南の境の守護というのが一番素直に理解できます。

 ここも両部鳥居です。本殿はほかの下山の神社と同じように屋根や柱で覆われています。ただ残念なことに保護されているはずの本殿の壁面が崩れて柱だけになって透けて見えるようです。

 ここで最後の参拝。

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両部鳥居です。

 

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住吉神社なのですね。

 

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5.行かなかった神社・行けなかった神社

 旧下山村は、下山村と四か村(上粟倉・下粟倉・大石野・小原島)に分かれます。四か村の神社は行きませんでした。遠いですからね。杉山の八幡神社もパス、ちょっと遠い。稲荷神社をパスしたのは先に述べましたが、そのほかに「西山石尊宮」と「八王子神社」があるようです。それぞれ穴山氏が在住の時に、未申(南西)戌亥(北西)の守護神として祀られたようです。「うやまだいら」のどこかにあるのでしょう。「身延町誌」に地図は載っているので探せるのかもしれませんが、苦労しそうです。

 そのほか「甲斐国社記・寺記」では一の宮の兼帯社として村内に「御崎大明神」「山之神」があるそうです。これもどこか、調べれば郷土史家のどなたかが研究しているかもしれません。

 「甲斐国志」には「・・・○藤森神社(同村:下山のこと)崇道尽敬天皇ヲ祀ル○鈴鹿御前(同村)大彦命ヲ祀ルト云住吉以下皆二ノ宮神主兼帯ス」とあります。省略した部分を補うと、二の宮の神主が、境の宮、天神様、藤森神社、鈴鹿御前の神主を兼帯したとのことですが、藤森神社と鈴鹿御前がわかりません。崇道尽敬天皇日本書紀を編纂した舎人親王です。京都伏見の藤森神社には藤尾社の祭神であった舎人親王が合祀されているそうです。そのゆかりの神社でしょう。鈴鹿御前は鈴鹿山に住んでいた伝説上の女性、女神だそうです。大彦命記紀に書かれた古代の皇族だそうです。よくわかりません。

 興味はそそられますが、調べる気力はわいてきませんねえ。誰か教えていただけるとうれしいのだけれど。

 さて次はどこの神社に行こうかなあ。

 

 

篁生の神社巡礼日⑦~下山の神社その1~

1.下山の神社

 下山は狭隘な山梨南部の河内地方においては、南部・波木井・西島などとともに比較的広い土地を有する場所でした。正確な範囲はわかりませんが、かつては下山荘という荘園があったそうです。「身延町誌」によると、鎌倉初期に甲斐源氏の一族秋山氏の小太郎光重が領主に任じられ下山氏を称したそうですが家系は途絶したようです。武田支配下に穴山氏が領有し、河内地方を支配しました。

 私が父から聞いた話では、下山を拠点とした穴山氏は、京都を模して町並みを整備したそうです。本町(直下の城下)・大庭(馬場があった場所)・大工町(別名:番匠小路、職人町)・竹下(穴山氏の母の菩提寺南松院の檀家)・仲町・新町・荒町(新たに発展した町)。京都の町家のように間口が決まっていて区画も整然となされています。駿州往還のの要衝として、また身延山詣での宿場としての街村的な部分もありますが、城下町としての都市的側面もあります。城市からやや離れた山額・杉山という集落もあります。

 本当なのでしょうか、父や中学校の先生(下山在住の僧侶)から聞いた話ですと、領主穴山梅雪(信君)は京都に憧れる余り、下山の景物に京都由来の命名をして、京都由来の神社を造営したそうです。

 「身延町誌」には下山の神社は十三社載っています。子供の頃は一の宮、二の宮、三の宮と俗称で呼んでいましたが、正式には一の宮賀茂神社、二の宮下賀茂神社、三の宮飯縄神社と、確かに京都っぽい名前です。

2.2022初詣でまずは二の宮

 子供たちが別に暮らしていると、今住んでいるところが子供らのふるさととなってしまうので、いきおい自宅で正月を過ごすことになってしまいます。父母のいなくなった下山の実家には、年末に大掃除と正月の準備をして、お寺さんが檀家参りをする4日に合わせて帰ることになります。

 今年は3日に帰省し、4日の午前にお寺さんをお迎えして、その後「さて」ということで下山の神社すべてを回る初詣でを試みました。実際は一番北の天神様から回ったのですが、紹介は一の宮・二の宮・三の宮とその他の神社に分けてします。

 まずは二の宮。

 二の宮は正式には「二の宮下賀茂神社」。私の育った本町区と竹下区の氏神です。北側に矢沢川が流れ、小高い丘になっています。天気のよい日で空気は冷たいけれど身の引き締まるような感じです。正月の季語に「淑気満つ」というのがありますが、このような気分のことでしょうか。石段の前に立って見上げるとかなりの段数で勾配もきつそうです。おまけに一段一段が狭い。昔の人の足の大きさに合わせたのでしょうか。年のせいかおせちの食べ過ぎか登ると息が切れます。

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かなりの石段です。

 中頃に鳥居があります。両部鳥居です。左右の柱の前後に控え柱を四本つけているので四足鳥居ともいいます。そのあたりが一旦なだらかになっていて振り返ると、大木町・仲町・新町あたりが一望でき、面の広がりを感じさせます。城下町を実感するふるさとの好きな風景です。でも写真を撮るのを忘れました。

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鳥居は両部鳥居です。

 さらに石段を登ると拝殿が杉木立の間から見えてきます。宮司さんのいないお宮なので氏子で管理しています。参道はきれいです。息が少し切れましたが上りきって参拝しました。鈴を鳴らします。昨年は多くの神社がコロナ対策で鈴を鳴らすのも止められて、縄を高くつり上げて振れないようにしていました。それに比べると鈴を自由に振れるのは、ちょっとよくなったのかな、とその時は思いました。オミクロン未だの時だったので。

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拝殿を近くで撮り損ねました。遠景です。

 本殿は本当の本殿を一回り大きな社で囲んでさらにブルーシートがかけてありました。傷みが激しいのでしょうか。

 なんとなく心が落ち着く神社です。私にとってふるさとを実感できる場所です。

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本殿にブルーシートがかかっています。雨漏りしているのでしょうか。

3.河内領一の宮賀茂神社

 一の宮は下山で唯一宮司さんの神社です。河内領(いわゆる峡南地方)の筆頭の神社として武田氏・穴山氏の崇敬を受けました。地形的には下山の平坦な居住区域の一番奥方にあり、村の鎮守を置くにふさわしい場所でしょう。

 一番奥なら領主の居城とした方がいいと思うかもしれませんが、ちょっと勾配ななだらかなんですね。かつて下山城があった本国寺は、一の宮より前にあるのですが、小高くなっていて土塁を築いて防御するのにいい立地です。

 参道がまっすぐに伸び、大工町の町並みが左右に広がります。ここは「下山大工」という神社仏閣を得意とする大工集団が居住した場所です。石川家・竹下家・松木家など伝統ある棟梁の家もあります。(今はどの家も建築業はしていないようですが)下山大工は甲斐善光寺の山門、御嶽金桜神社の神楽殿、明治の擬洋風建築睦沢学校など素晴らしい作品を残しています。

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 一宮も両部鳥居です。注連縄が真新しく立派です。狛犬にも迎えられて拝殿へと進みます。拝殿は幕が張られています。描かれている「折敷に三文字」は神紋でしょうか、宮司稲葉家の家紋でしょうか。「身延町指定文化財建造物一之宮賀茂神社本殿」と書かれた標柱もあります。社務所から雅楽が流れています。

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一宮も両部鳥居です。

 

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河内領一宮。立派です。

 幣殿も立派ですが、文化財の本殿は透明なパネルで囲われてちょっと見づらいですね。

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下山の神社は本殿を保護するように囲っています。

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下山の神社は摂社が少ないようです。

 ご祭神は「瓊瓊杵命(ニニギノミコト)」と「賀茂別雷命(カモワケイカズチノミコト)」です。子供のお宮参りや七五三でお世話になりました。

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榊の原生林。

 ここの榊の林は原生林の群生としては山梨県では北限のようで山梨県の自然記念物に指定されています。榊は神事に使う神聖な木です。切って使ってはいけないのかな。

 帰りは気持ちがいい下り坂です。

 お正月の山。お正月の空。

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見下ろすと城下町です。

4.なぜか迷った三の宮

 三の宮は一の宮より南、新町区の西の高台にあります。夏は風の通り道で涼しいところです。冷房なんてない時代、私の父は子供の頃夏休みの暑い日は、ここの境内か拝殿で涼みながら勉強をしたと言っていました。

 正式には三の宮飯縄(いいずな)神社といいます。この神社は京都にはないですね。長野の飯綱山の山頂にあるそうです。飯綱はイタチの仲間の小動物です。最近物故された漫画家白土三平氏の名作「カムイ伝」「カムイ外伝」の主人公忍者カムイの必殺技が「飯綱落とし」でした。プロレスのバックドロップみたいな技です。少年時代、カムイ伝には感動したなあ。合掌。

 ここのご祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)といいます。五穀を司る神様です。あれ?五穀豊穣はお稲荷さんじゃないの?お稲荷さんは狐だよね。でも本家の飯縄神社のご祭神は狐だとも言うし、よくわかりません。下山には稲荷社も別にあります。

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三の宮飯綱神社です。

 以前何度か行ったことがあったので、自信を持って行ったのですが、迷いました。どうも前と別のルートで行ったら感覚が狂ったみたいです。同じ道を行ったり来たりしてやっと参道を見つけました。

 うろうろしていると、何度も同じ若者とすれ違いました。折りたたみ自転車に乗った青年です。私らと同じで三の宮を探しているのかなあ。

 迷った理由がわかりました。こんなに遠いはずがないと引き返したカーブのすぐ先に三の宮はあったのです。そこまでと決め込んだところを枝道を探しながら行ったり来たりしていたのです。

 鳥居はなく、二本の竹に注連縄を張って結界としているようです。石段が十段ほどあって、後は坂道です。拝殿の前に再び十段ほど石段があって境内に着きます。

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 ここには鈴や賽銭箱がありませんでした。ですから二礼二拍手一礼してお賽銭は割愛。裏手に回ると本殿はここも一回り大きな囲いで覆われ、下の部分はトタン板で囲われていました。

 この距離で三つの神社。下山はやっぱり神社が多いですね。

 次回はその2として残りの神社を紹介します。

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本殿は囲われています。

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本殿の脇に祠がありました。

 

 

篁生の神社巡礼日⑥~山縣神社~

1.山県大弐という人

 私が通った小学校は身延町立下山小学校といいます。校名は残っていますが、統廃合が進んで、校舎も別の場所に移転して昔の面影はありません。まあ、私が通ったのは半世紀も前のことですが。大きな銀杏が裏手にあって、小高い城跡の丘にあった校舎がなつかしいなあ。

 その古い木造校舎は二階建てだったのですが、両端と中央に階段があって、中央の階段の踊り場に、大きな油絵の肖像画の額が飾られていました。油彩だけれど和服姿の上半身像で、目力が鋭いがっちりした男性像でした。記憶がさだかではないのですが月代は剃っていず、総髪か何かだったと思います。ちょっと怖い感じで、「誰だろう、何でここに飾ってあるのだろう。」と不思議に思っていました。

 「山県大弐」と額の横か下に書いてあったようです。低学年の頃は、「サンケンダイなんとか?山梨県に関係ある人かな?」などと思っていました。年長に及んで「山県」がヤマガタとは読めるようになったのですが、それでも思い浮かぶのは山県有朋ぐらいで、明治時代の人かなと思うぐらいでした。

 どうして山県大弐肖像画が田舎の小学校の階段の踊り場に飾られていたのだろう。誰か裕福な方(卒業生か保護者か、先生か)が寄付したのでしょうか。もしくは画家として名をなしたOB本人が寄贈したのかもしれません。遙か昔の思い出です。

2.最近アピールしています

 山県大弐はその後、日本史の授業で、吉田松陰らに先行する勤王の思想家ということでなんとなく理解したのですが、はっきり意識するようになったのは最近です。最近という範囲がここに二三十年というのが今の私の時間感覚です。

 旧竜王町(今は合併して甲斐市)が、郷土出身の偉人としてアピールしだしたのです。竜王駅前にはブロンズ像が建立されていますし、秋には「大弐学問祭り」というお祭りが盛大に開催されますし、図書館には「山県大弐コーナー」が設けられています。「大弐」という芋焼酎も発売されました。地元特産のサツマイモで作った焼酎だそうです。

 山県大弐国学儒学医学天文学兵学音楽などあらゆる学問を修めた江戸中期の人で、勤王思想を説きました。それが幕府への謀反とされて処刑されました(明和事件)。明治維新の後、正四位を追贈されるなど名誉を回復し、1921(大正10)年には生地に山縣神社が創建されました。

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竜王駅前

 

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3.竜王駅から

 12月上旬のとある昼下がり、竜王駅に降り立ちました。建築家安藤忠雄氏設計のしゃれた駅舎です。師走というもののそれほど寒くはなく、空が目にしみるほど青い。竜王甲府盆地の真ん中ぐらいに位置し、360度周囲の山々が見渡せます。富士山、御坂山塊、鳳凰南アルプス、甲斐駒・・・南口に降りるとロータリーの西側には山県大弐像が出迎えてくれます。横にさすり石と書かれた、書籍をお積み重ねた石材の彫刻があります。このオブジェをさすると学問の御利益がある、という意味なのでしょう。仏像や動物像などでその部分をさすると御利益があるといわれ、手垢で黒光りしているものは、どこかで見たような気がしますが、本は初めて。一番上の和本は、大弐の代表的な著述「柳子新論」。石材店の展示品みたいに真新しいけれど、そのうち黒光りしてくるのかな。

 ここから山縣神社まで10分くらい?久しぶりの神社巡りです。

4.いざ参拝

 適当に歩いていたらなんだか迷ってしまい、20分ほどかかって到着。シンプルな神明鳥居が迎えてくれます。

 横に案内板があります。鳥居のすぐ脇のものには、由緒と「合格祈願 学業成就 交通安全 開運招福 家内安全 商売繁盛」と御利益が(恋愛や安産の御利益はないようです。)書かれていて、四隅に桔梗紋が配されています。その横には、山梨県甲斐市の説明板と、屋根がついて柵で囲われた立派な由緒書き。こちらは土台の部分に「奉納 株式会社 サンリオ(下の部分が写真では切れていますが、多分、「取締役社長 辻信太郎」)と書かれています。

 キティちゃんで有名なサンリオの創業者、辻信太郎氏の辻家は500年以上続く旧家で、武田信玄の二十四将の一人山県昌景の子孫を称しているようです。とすると、山県大弐もご先祖様ということになります。武川重太郎の「小説山県大弐」がサンリオ出版から刊行されているのはそのような関係からでしょうか。意外なものが意外な形で繋がっているのですね。

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一の鳥居かな?シンプルな神明鳥居。

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由緒書です。

 創建百年の神社ですから、境内は鬱蒼というわけにはいきません。それでも杜といえるくらいには木々が茂っています。常緑の木もありますが、冬枯れに木々の向こうに青空が鮮やかです。

 手水場がありました。「国登録有形文化財」と書かれてあります。へえっこれが?ありきたりの手水場にしか見えないのだけれど。

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快晴ですが、冬枯れの木々は寒々しい。

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どの辺が国指定の文化寺なのかな。

 狛犬のお出迎えの中、参道を進みます。

 左手に山県大弐の像が立っています。左手に書物のようなノートのようなものを持ち、右手に筆を持って何か書いているポーズは、駅前の像と同じですが、顔の角度とかが微妙に違うので、駅前の像はこちらの複製ではなさそうです。駅前の像の方が新しいのでしょう。いかにも学問の神様のポーズですが、どうせ新しく作るならもっと別のポーズはなかったのかな、と思いました。

 右手には神楽殿。鉄骨造りです。大正以降の建築ですから。切妻造の妻の部分に桔梗の紋が施されています。先ほどの案内板といい、桔梗は山県家の家紋のようです。

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狛犬お迎えです。

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楽殿は鉄骨ですね。

5.本殿・拝殿へ

 拝殿の案内板がありました。「国登録有形文化財」です。本殿、拝殿、鳥居、手水舎すべて合わせての文化財のようです。手水場での疑問、納得できました。ただ、大正時代の神社建築が文化財ってどうなんだろう。本当は有形な建造物ではなく、この建造物を作り出した精神そのものを文化財として指定したのかもしれない、とも思ったりします。

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案内板を見ると、新しいなりに意匠を枯らしているようです。

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二ノ鳥居も神明鳥居。

 二の鳥居をくぐって拝殿へと向かいます。こちらも神明鳥居。拝殿も神明造で伊勢神宮に倣っているのでしょう。桔梗の紋の幕が張ってあります。勤王の思想家の神様ですから、皇室の祖先を祀る伊勢神宮に模しているのでしょう。

 私以外に訪れる人はなく、静かな中で参拝できました。鳥の囀りが聞こえてきました。脇を回って本殿も拝見しました。こちらも神明造です。

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神明造の拝殿です。

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本殿です。

6.歌碑がありました

 帰りがけに歌碑を見かけました。地元の歌人、三井甲之氏の歌碑のようです。案内板に従って読もうとしましたが、なんか変。案内板には、三井氏が酒折宮を訪ねた時に、山県大弐が建立したという、日本武尊について誌した石碑を見て詠んだ和歌が紹介されています。「勤王の志士山県大弐がたてしとふ石ぶみ見れば文字にも力あり」。あえて字余りをねらったのでしょうか、それはいいのですが、ここに立てられた歌碑には全く別の和歌が書かれています。「ますらをのかなしきいのちつみかさねつみかさねまもるやまとしまねを  甲之」。大和島根は日本の別称ですね。ひらがなでわかりやすい歌碑なので、本文自体の解説は必要ないと判断したのでしょうか。歌碑には関係ない説明で、まあ、二つ和歌を読むことができたから得した、と思えばいいかな。

 やっぱり神社仏閣を参拝するのはいいなあ。気持ちがピンと張る感じがします。非日常の世界だからかな。そんなことを思って山縣神社を後にしました。

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三井甲之氏の歌碑。

7.余談

 山縣神社には何度も行ってます。息子たちの受験の時には初詣でには学問の神様へと、何年も続けて通ったものです。正月は人がごった返すほどで、焼きそばやイカ焼きの屋台なども出て賑わっていました。合格祈願の絵馬がたくさん奉納されていました。

 とある正月、例年のように初詣でに行くと、ちょっと雰囲気が違っていました。どうも反社会的勢力と思われる方が二十人ぐらいで列をなして参拝に来ていたようなのです。一種特別な威圧感があって、ほかの参拝者は、ちょっと距離を置く感じで、その中を、ザッ、ザッ、ザッと帰って行きました。

 その時は、別の意味で気持ちがピンと張る感じがして、非日常の世界を感じました。

篁生の神社巡礼日⑤~酒折宮~

1.古蹟を訪ねて

 漢詩を勉強しています。古碑・古蹟という題で出された時、山梨にどんな古蹟や古戦場があるだろうかと考えました。意外に少ないのですね。古代から中世にかけては歴史の表舞台に立つことはなかったし、幕末・維新には戦場になったのかもしれませんが、古蹟というには新しすぎます。

 武田氏滅亡の、新府城恵林寺・天目山・岩殿山ぐらいかなあ。そこで思い出したのが酒折宮です。超古代、ヤマトタケルの伝説の時代の古蹟です。甲斐国志には「坂下(さかおり)村」という記述もあり、本当にここにあったのかは、はてななのですが(古事記を読んで後付けで命名した可能性もあるし)、そう感じさせるほどこぢんまりした神社です。日本武尊を祀っているのですから、武運長久を祈って参詣する人も多いのでしょう。甲府近辺の方々は受験生の合格祈願に来る人も多いようです。受験は戦いなのかな。

 秋とはいっても日差しが強い10月のとある日の午前、酒折駅を降りて、神社を詣でました。このブログも久しぶり。コンセプトにしている、皆があまり行かない、でもそれなりにいわれのあるしっかりした神社というのは、それほど多くはないのです。夏には諏訪大社、上社本宮前宮、下社秋宮春宮全部廻ったのですが、メジャーすぎてちょっとレポートする規模ではないと思い、やめました。

2.なじみのある神社

 かつて職場が近くにあったことや、子供達が近くの学校に通っていたこともあり、自宅からはかなり離れているのですが、なじみのある神社です。

 周囲は閑静な住宅地。かつてはぶどう園が広がっていたと思います。梅の名所「不老園」も近くにあります。駅から西に線路沿いを歩くと、ありました、それほど大きくない鳥居が。こんなものかなと思って鳥居をくぐると、正面には何もありません。そうだよな、本殿は南向きだものな、と鳥居に戻って社号を見ると「八幡宮」とありました。摂社用の鳥居でしょうか。

 

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よく見ると八幡宮と書いてあります・

 南に迂回して正面から参拝します。鳥居と狛犬が迎えてくれます。小さな石祠も祀られていますが、それほど多くはありません。旧社格は村社ですが、地域の神様の親玉というより、唯我独尊、ヤマトタケルのみやしろだぞ、という感じです。わかりづらいかな。地元の神様ではない感じ、マレヒト的な感じかな。

 でも、この酒折宮、周囲に特徴的な景物がなく、絶対的な比定はできないので、山の麓は「坂下」だから、その村は「さかおり」村で、そこに作った神社が「さかおりぐう」。そしたら古事記に「酒折宮」があるので村の神社のいわれをそれにくっつけちゃおう。なんて当時の人々が考えたという妄想が働くのですが、どうでしょうか。桃太郎伝説とか、義経伝説とか無理のある伝説はあります。

 拝殿の奥に本殿があります。頑張って撮影しましたが、本来の参拝のスタイルではないですね。だって、本殿の中のご神体は決して見ることができないのですから。見尽くそうとしても見尽くせないのが神様なら、心に描いて祈ることこそが信仰の本来なのかなとも思います。でも見たい。

 

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正しい正面です。

 

 

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3.ヤマトタケル連歌について

 ヤマトタケルはかっこいい。お父さんのいうことを聞かない兄ちゃんをバラバラにして堀に投げ込んじゃえる程強いのに見た目は美少女。西の悪い奴らをやっつけたら、今度は東の悪党をピンチを切り抜けばったばった。しか美女を吊れてだよ(古事記を読んでください。古事記って面白いです。)。

 そのヤマトタケルが、弱音を吐き始めるのがこの前後です。足柄山で「ああ妻よ」と嘆いて、酒折では「筑波山からどれほど来たのか」とその土地の老人に尋ねます。とっても疲れ切っているようです。「九泊十日ですよ。」と答えた翁に国守を任ずるのですが、返歌に感激して東国を託したというよりも、「もういいやあとはよろしく。」とちょっとつらそうな感じがします。このスーパーヒーロー、誰をモデルにしているのかなあ。漢文の登場人物だと項羽だけど、わたしはオリエントのギルガメッシュを想起します。

 ちょっと舌足らずですね。項羽ギルガメッシュもスーパーヒーローです。

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元は山の中腹にあったみたいだから「坂下」の語源はどうかな。

 

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狛犬が迎えてくれます・

 

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小さな祠も合祀されていますが、それほど多くないようです・

4.三つの石碑

 境内には三つの石碑があります。

 一つ目は「酒折連歌の碑」です。ヤマトタケルと翁が「577」と「577」で片歌を唱和したことから、この地を連歌発祥の地として、酒折連歌のコンクールが開かれています。

 

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石碑その①。連歌発祥の碑。それほど古くない。

 二つ目は、本居宣長が本文を書いて平田篤胤が字にした石碑です。三つ目は山県大弐の文です。碑文に使われていた漢語は辞書に載ってない単語もあり、勉強になりました。
 静かな境内には、平日だからかほとんどおとずれる人はいません。宮司さんの奥様とおぼしき人と近所の奥様らしき方が静かにお話しになっていました。

 

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石碑その②。本居宣長の文で平田篤胤の書です。

 

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石碑その③。山県大弐です。

 

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拝殿です。

 

 

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本殿は見えづらいです。奥にぐいっと入らせたいただきます。

 

 

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篁生の神社巡礼日誌④~武田八幡~

1.山梨に門前町は少ない? 

 観光というと、名勝地見学、温泉、グルメ、ショッピングなどと合わせて神社仏閣参拝が定番だろう。この神社巡りでは、観光の定番であるような神社は遠慮して、由緒はあるけれどひっそりたたずんでいるような、もしくはしっかりと地元に根ざしているような神社を参拝しようと思った。そうした目で山梨の神社を見ると、アレッ遠慮すべき神社は少ないなあと感じた。観光バスを連ねて訪れるような所はお寺では身延山くらいだろう。門前町と言っていいのは、身延山の総門と山門の間くらいではなかろうか。伊勢神宮の「おかげ横丁」とか、浅草寺の「仲見世」とまではいかなくても、土産屋や飲食店が軒を連ねる光景があるかというと、特には思い浮かばない。武田神社の前には数軒土産物屋があったけれど、金桜神社、酒折宮、吉田浅間神社、一宮浅間神社・・・どうだったかなあ。

 巡礼が娯楽だった江戸時代や、その前の時代にはそれなりにあったらしいが。今は往事を偲ぶことはできないが、甲府城の前身、一條小山の南にあった時宗の一蓮寺の門前町や、そば切り発祥の地の候補天目山(参拝者に振る舞ったのがそば切りの始まりだといわれている。どうかな。)は賑わったという。神楽殿が立派だったという御嶽金桜神社や、落語「鰍沢」で有名な小室山の妙法寺、七面山や裏ルートで身延山に行く赤沢宿などはかつての賑わいの面影が多少は町並みに残っている気がする。

 武田八幡宮は、石造りの三の鳥居、大きな二の鳥居がある。その手前に石造りの一の鳥居があると「甲斐国社記・寺記」には書かれているのだが、一の鳥居は見落としたのか気付かなかった。「甲斐国志」には「今標木ヲ立ツ」とあるので一の鳥居はなくなったのかも知れない。まっすぐ延びる参道には、人家が軒を連ね、もし多くの参詣人が通るのなら、飲食や宿泊を提供しただろうなと想像でき、ちょっと門前町みたいな雰囲気が想像された。実際どうだったかは知らないが。

 摂社である「為朝社」は痘瘡の神として悪疫退散の神として崇敬されたそうで、さしずめ、今のコロナ禍の狙い目パワースポットかも。今回は武田八幡からは南に少し離れており、足は伸ばさなかった。

 今は静かな杜ではあるが、その昔はどうだったのだろう。

 

 

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2.三度目の武田八幡 

  1月17日に武田八幡宮に参拝した。三度目だ。八幡様は武運の神様だから、家族の受験の際にはなんとなく行こうかと思う。武田信虎や信玄が戦にめっぽう強かったからそれにあやかりたくなるのだ。最近は他人に勝ちたいとはあまり思わなくなったが、理不尽なものや横柄なもの、エゴむき出しで面の皮の厚い奴らには負けたくないと思う。しかし、それより、己に甘く怠惰で自堕落な自分に勝ちたいと思う。神仏に祈ることではないか・・・まあ、運動不足解消という別の目的もある。

 よく晴れた日であったが、風は冷たい。今年は暖冬ではないらしい。まっすぐに伸びた参道は、行くに従って勾配がきつきなる。右を見ると冬枯れた木が見える。あれ「ワニ塚の桜」だろうか。ワニ塚は天皇の皇子の御陵と伝えられ、武田の地名の発祥の地だとされる。

 「二の鳥居」をくぐる。大きな鳥居だ。古そうでもある。厳島神社の海に浮かぶ鳥居みたいで、これを両部鳥居というそうである。扁額は武田信玄の筆というがよく読めない。案内板が詳しい。更に行くと路傍に道祖神。なんということのない石祠だが背景の八ヶ岳が白く美しい。八ヶ岳男神の山だ。

 

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二の鳥居は厳島神社みたい。

 

 

 

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彼方に八ヶ岳が見えます。

3. まっすぐ進めない

 坂は急になっていき、いよいよ境内へ。と、正面に鳥居が見える。二の鳥居とは違って、小ぶりの石の鳥居だ。台輪鳥居。その向こうに随神門がある。しかし石垣の上に作られた鳥居も門も、直接真ん中をくぐる石段がない。両脇の石段を回るように上がらなければ正面に回れない。どうしてだろう。くぐられるのをいやがっているのか。誰が?随神門は二階建ての立派な門で、左右の随身像は胸に武田菱(一方は花菱かも)の模様がある。ディテールにこだわりがあるね。

 晴れて中心を通る石段に。ところがその先にもまっすぐ行くのを阻むように神楽殿がある。障害物競走のようだ。 

 

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次の石鳥居が見えてきました。

 

 

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随神門です。

 

 

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楽殿が見えてきました。正面にあるのですね。

 

 

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楽殿の北にある楽屋みたいなのは何というのでしょうか。神楽装束舎?

4.拝殿、本殿
  結構な石段で息が切れる。ソーシャルディスタンスの立て看板が見える。初詣にはこの看板が機能するほど人が集まったのだろうか。

 拝殿はなかなか立派で、武田菱の描かれた幕が張ってある。二礼二拍手一礼、賽銭に見合わないほどたくさんの願いを心に刻む。欲張りすぎだ。俗物だなあ、俺って。

 北側にお堂というか、格子の戸の粗末な小屋があって、「熊に注意」のステッカー。

その前を通って本殿も拝見した。国指定の重要文化財だ。南に回ると摂社の若宮八幡があった。社務所も含めて社殿の多い神社だと思う。石の祠も多すぎて紹介しきれない。

 神社のランクだと、県社に当たる。社格は、府社ー県社ー郷社ー村社ー無格社の順だからかなり高い。戦前の社格だが。 

 

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拝殿が見えました。ソーシャルディスタンスです。

 

 

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熊に注意の北のお堂。

 

 

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北から見た本殿。

 

 

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南から見た本殿と拝殿。手前にあるのは。

 5.みんな集まれ

 寺社は基本的にはみんなが集まる場所ではないのかな。そこがコモンスペースとなったり、コミュニケーションの場となったり、時にはアジールとなったりする。いのちの集う場所っていうか、あまり難しいことは考えずに集まるんじゃないかと思う。

 武田八幡は神仏習合の頃は、若草の加賀美の法善寺が別当寺となっていて、神も仏も区別なかったのか、武田八幡にも一つの石に百観音の像が刻まれた「一石百観音石像」なんてのもある。色々な人が信条を問わず集まったのか。

 人間だけじゃなくて、歓迎しなくても熊が出没しているようだし、当然鹿も来るだろう。私達が訪れたこの日は、見かけた人は4,5人だった。お猿さんは二十匹くらい跋扈していた。猿口密度の方が高かった。コロナも生き物だろうか。そうだとしてもこの方達は集まることはご遠慮してほしいと思う。エゴ?エゴじゃないよね。

 

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猿が跋扈してます。

 

 

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百観音です。


 

 

 

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