篁生の神社巡礼日⑩~氷室神社~

 このブログも一年以上休眠状態でした。体調がどうこうとか何かがあったかというわけではなく、単に報告できるような神社に参拝しなかったということですが。

 令和4年12月18日、久々に由緒ある神社に詣でました。富士川町平林にある「氷室神

社」です。

1.「桃源境」

  「桃源境」は中国晋の陶淵明が著した「桃花源記」に描かれた理想郷です。とある漁師が桃花の先ほころぶ川を遡ってその水源にある洞穴を通り抜けるとそこに浮世とは隔絶された里があるのでした。秦の戦乱を避けて人々はそこに移り住み、外界との交わりを絶って何百年と暮らしてきたというのです。その村はいかにも平和で皆が楽しそうに暮らしていました。漁師はそこで数日を過ごし外界に戻ったのですが、その後誰がどう探してもその村にたどり着くことはなかったというのです。陶淵明はそこに老荘思想的な理想郷を思い描いたようです。もちろん現実には、そんな理想郷はあるわけではないけれど、モデルといえる集落はあったのかみしれません。インテリの描くユートピアと、もしそのモデルがあったとしたらそこに住む人とは意識に乖離があるでしょう。平和や幸福という概念は、もしそれが満たされていたとしても、いや満たされていればいるほどその概念には無自覚であるでしょうから。まあそんなことはどうでもいいのですが、俗塵から隔絶された場所に不思議な村があるという設定は胸がわくわくします。

 山梨県に住んでいると、トンネルに近い切り立った山道を通り抜けた先に、豁然として集落が開けることがあります。私の体験ですと、南部町内船から峠(あるいはトンネル)を越えた上佐野(マムシの里)、身延町古関(こちらはとうに郡内に道が通っているので秘境感はないのですが)、市川町三郷街の帯那(トンネルを抜けた光景は印象的でした)、富士川町小室。どこも「この先何があるのか」と思わせるほど切り立った崖やトンネルの先が、急に空が開け幾十もの田畑がきれいに整備されて、民家が点在する光景に息をのんだ経験があります。もっともそれらの集落もかつては林業の集積地、宗派の大本山門前町、峠越しの街道筋、といった人々がそこに居住する理由があったようです。

 「平林」も気になっていていつか訪れたいと思っていた集落でした。落語に「平林」という演目がありますが、各地にも同類の民話があるっようで、山梨でも土橋里木氏の「續甲斐昔話集」(S11)に橘田義直氏より採話した話として「平林」が載っています。文字の読めない下男が主人の使いで手紙を届けるのですが、なにしろ字が読めないので、行く先々で宛名を聞いて、それをつなぎ合わせて「たいらばやしかひらりんか、いっぱちじゅうのぼーくぼく」と節をつけて歌うのを、気がふれたのかと不審に思った鰍沢の町役人が尋問して、目的地が平林だと判明し、無事たどり着いたという話です。ゆずの里、棚田の景観、木工品の産地として多少は知られてはいますが、ゆかりのある人でなければ余り足を運ぶ人はいない山里です。この秋に同町の舂米地区をウオーキングして、利根川沿いの道を歩きました。この道を上っていくと平林に通じるようなので、行ってみようかとしたのですが、崖は深くなり一向に空が開けそうもないので、観音様が立っているヘアピンのカーブのところで引き返しました。

 行けなかったとなるとかえって好奇心がわきます。特に今時、Googleマップストリートビューなんてものがありますから、イメージの上では行った気になれるので、是非行ってみたいという気持ちが募ってきます。さらに地図で確認すると「氷室神社」という由緒正しい神社があることも確認できました。

櫛形山は雪が積もっています。

2.平林、バス、富士川町「桃源境」

 前日の雨に続いてこの日曜日もよろしくない予報でしたが、朝起きると日が差しています。グズグズして自分の気が変わらないうちにと意を決して氷室神社を訪ねることにしました。山梨交通のバスを乗り継いで富士川町に行きます。

 富士川町は山間部に定期バスを運行しています。平日は通勤・通学の朝夕を優先したダイヤを組んでいますが、土日祭日には「ホリデー」とかで、やや遅く出かけてちょっと早く帰る、週末に実家を訪れる方を想定したようなダイヤが組まれています。私のようなフォーリナーも想定しているのでしょうか。でも私が利用した正午頃の便には乗客は私だけでした。

 富士川町立図書館のバス停から乗ります。前方には櫛形山、山腹は昨日の雨が雪だったらしく白さが目立ちます。バスから見る窓の外は澄んだ青空の下初冬の農村風景が広がります。収穫の終わった田や冬野菜の青みが見える畑、軒先に柿を吊した民家、小春日の中のんびりと時間が流れるようです。やがて人家が途絶え狭隘な谷筋へバスが進むと、過日引き返した観音様が見えました。その時はもうひとがんばりすれば平林につけたかも、などと悔やんだのですが、どうしてどうしてその先も山道は続いていました。あの時は断念して正解だったようです。

 終点のバス停に下りると、小春日だと思っていたのは車内での錯覚、空気はとても冷たい。おまけに日陰にはしっかり雪が残っています。いやいや、自分はもっと奥の木深い神社に行くんだよな、大丈夫かな、と少し不安がよぎります。それでも東の空を振り仰ぐと、「あっ富士山!」大きい。甲府盆地からだと御坂山塊や曽根丘陵の上にちょこんと乗っている富士が、山容の半分以上を顕わして悠然とそびえています。ああここは富士と対峙できるほどに標高が高いんだと実感しました。バス停は集落の外れのやや高いところにありました。「みさき」というそうです。見下ろすと、まさに桃源境、棚田が美しく整えられ、家々は密集しているわけではなく適度にパラパラとある感じです。(陶淵明の桃源境は『土地平曠、屋舎儼然』だからもうちょっと平らかな)

富士山が大きく見えます。

桃源境のたたずまい

3.鷹尾山、南高尾

 さて、氷室神社目指して上り始めます。標識では丸山林道や櫛形山登山道もこの先のようです。日陰は雪が残っていて、それがシャーベット状になっていたり、溶けて流れた後が氷になっているところもあるようでちょっと怖く、日向を選んで歩きます。五分ぐらいでしょうか、二の鳥居が見えました。各社によって違うようですが、この神社は遠い方から二の鳥居、一の鳥居と数えるようです。575の石段と行きがけに図書館でゲットした観光パンフレットに書いてありました。ああ五百何段ね、と深く考えもせず登り始めます。石段はまもなくただの坂道になり、風のそよめきも鳥の鳴き声もなく、杉木立からぴっぴっとしきりに音がします。たぶん雪が溶けてはじけた音なのかなと思います。日常では聞かない音色です。ほかは静寂。幻想的です。

 でもやがて車道に当たります、あれ、中断か。車道に従って歩きます。知らない道はこんなものかな。まあ、上がればたどり着くだろうと車道を行くと、案内板に行き当たりました。これが一の鳥居です。ここから本格的な石段上がりが始まるようです。

 ところで、この「氷室神社」はなぜそういうのでしょうか。「甲斐国志」にも「増穂町誌」にもその由来は書かれていません。名前や立地条件から察するに「氷室」があったのかな?標高1000超らしい。奈良にも氷室神社があるようなのでその末社かも。開基は奈良時代のらしく、「鷹尾山権現」として武田家や徳川家に崇敬されてきたようです。櫛形の高尾山に対して、南高尾とも呼ばれたそうです。当時は神仏習合でお寺でもあり神社でも会ったのですが維新の神仏分離令によって神社としてのみ存続しました。「鷹尾山 氷室神社」という山号寺号ならぬ山号社号はそのゆえんでしょうか。

二の鳥居

 

日陰には雪が残っています。

 

 

案内板

4.過酷な石段

 車道を上がっていくと一の鳥居に行き会います。一の鳥居からは例の石段です。見上げただけでも息を絶する勾配です。こりゃ、五百段てのは半端じゃないのかな。

 

一の鳥居です。山号社号は珍しいね。

 

ため息が出ます。五百段。

 いや、なめてました。いけどもいけども石段は続く。所々にある1ルメートルほどの踊り場の石灯籠も慰めにはならない。還暦過ぎの老躯にはつらい。

 やがて見えたのは、鳥居。あれ、一の鳥居より前?ゼロの鳥居かな。そうは言わずに赤鳥居と呼ばれるようです。両部鳥居で新しい感じ。

 鳥居をくぐって振り返ると、ピキピキとした雪解けの音も消え風に静かに舞う雪の粉がきらきらと杉木立の間にきらめいているのでした。思わず息をのむ光景でしたが、スマホの写真では伝えられないかな。静寂の極み。

赤鳥居、両部鳥居です。

 

まだまだ続く石段😢

 

写真だとわかりづらいけれど降り落ちる雪が日にきらめいています。

 やがて見えてきた建物。そうとはわかってはいたけど、この随神門がゴールの拝殿ならいいのにと思ってあえぎながら登りました。随神も心なしか無表情で冷たい。石段はさらに続きます。

髄神門

 

5.拝殿到着

 クラクラになりながらやっと到着。ひょっとしたら今までで一番苦しい参拝だったかもしれません。やっとのことで拝殿の階(きざはし)に座って10分くらいは息を整えていたと思います。センサーがあって私を感知したのか録音された雅楽がしめやかに流れます。リピ-トして何回か流れました。今時ですね。

 人心地ついて参拝。

 拝殿左手に渡殿でつながる神楽殿は庇が見事。

 境内を散策します。絵馬が掲げられていますが、それ以外に模造紙の貼られた大きな絵馬状のボードが三つあって寄せ書きのようにいろんなメッセージが書かれています。初詣での時に参拝者が思い思いに書いたのでしょうか。拝殿右手には池がしつらえてあって橋がかけられていますが、橋の上は冷たいのでしょう雪が積もっています。水車もかけられていますが凍っているのか動いていません。それでもすごく手入れのされた境内です。きちんと管理されているのでしょう。どこからともなく雪解けの流れの音が潺潺と聞こえてきました。

拝殿にたどり着いたときはもうヘトヘトでした。

 

立派な神楽殿です。

 

寄せ書きの絵馬

 

由緒書です。

 

6.本殿・大杉

 拝殿の右手を回って本殿を伺いました。雪を戴いた屋根の連なりは美しい。さらにその奥にはご神木の大杉があります。道がわからず斜面を直登します。この杉は県指定の天然記念物です。樹高は45メートル圧巻の巨木です。見上げるとまさに「天を衝く」という形容がぴったりです。と、そこでスマホのバッテリーがアウト。減りがはやっ!寒すぎたのかなあ。写真が撮れなくなりました。それどころか連絡も取れません。低電力モードに切り替える暇もなくダウンしました。

本殿

 

本殿と拝殿を背後から。

 

大杉を撮ったところでバッテリーがアウト。

7.その後

 もっと画像で報告したかったのに・・・という残念な気持ちと、連絡手段が途切れた焦りで帰路を急ぐことにします。道なき道ですので、必死に斜め歩きをして「随神門」までたどりつき、そこから数十段下ると林道と交差します。そこからは車道に従って下りました。車道も雪は残っているのでスリップに注意しながらバス停まで下りました。

 1)みさき耕舎 バス停の脇にある食堂兼体験施設です。2002年にオープンした養蚕農家をイメージしたおしゃれな建物です。午後一時を過ぎていて、遅めの昼食をとりました。かけそばセットを注文。かけそば(ねぎ、天かすの薬味)、天ぷら(かぼちゃ、たまねぎ、青物)、梅のおにぎり、カボチャの煮物、コーヒー、大学芋で1000円はうれしい。カボチャ天は甘くしっとりとして絶品。にぎりたてのおにぎりもごはんがほかほかで、かけそばと交互にいただくと冷えた体にしみこむようです。窓に面したカウンター席で富士を目の前に食後のコーヒーを啜ると満ち足りた気分になりました。テラス席もあり、夏はそちらもいいかな。売店には地元の野菜が並んでいましたが持ち帰るにはかさばります。カップに入ったゆず味噌を一つ購入しました。

 帰り際に公衆電話がないかお店の方に尋ねると、電話を使わせていただけました。最初から電話を貸してくださいと言えばいいのにね。今時お町でも公衆電話はありませんよね。

 2)散策、バス停 帰りのバスは3時半。一つ手前のバス停まで歩いて行き、周辺を散策することにしました。たしか郵便局があって、バスの待合所があって、商店があって、その上が小学校の跡地で体育館らしきものがあったな。歩き出すとかなりの急な下り坂です。棚田が広がるゆえんでしょう。穏やかな日差しですが少し風が出てきたようです。それも心地よい。待合所(正式には櫛形山登山道平林休憩所というらしい)について中をうかがっていると私の母ぐらいの年齢のご婦人が話しかけてきました。ご近所の商店(今は営業していないそうです)の方で、待合所を定期的に清掃していてその片付けにきたそうです。何しにきたか尋ねるので氷室神社に参拝に来たというといろいろ話してくれました。

 かつては大晦日というと大勢に人が列をなして参拝してこと。ご婦人のお子さんは、私と同年代のようですが、中学生の頃度胸だめしだといって毎晩9時になると氷室神社まで走って行ったこと。これは半端じゃないことです。石段だけで500段、さらにそこまでも急坂で1キロ以上はありそうですから。年配の宮司さんが亡くなられていまは近くの若い方がなさっていること。そのほか集落のことやご家族のことなど様々なことを語ってくださいました。

 ご婦人がお客様が来るのでとご自宅に戻られたので、集落内のお寺やお宮をちょっと訪ねようかと歩き始めましたが、今度は登り坂。非常にきつい。足にも違和感を感じて、ああ俺も年だなと思わざるを得ませんでした。地図を頼りに稲荷神社と日蓮宗の徳林寺をお参りしてバス停まで戻り平林を後にしました。

 車を運転しないこともあって一日がかりのプチ旅行といった趣でしたが、心地よい疲労に身を包まれながら帰途につきます。今夜のお酒はおいしそうだ。