篁生の神社巡礼日⑥~山縣神社~
1.山県大弐という人
私が通った小学校は身延町立下山小学校といいます。校名は残っていますが、統廃合が進んで、校舎も別の場所に移転して昔の面影はありません。まあ、私が通ったのは半世紀も前のことですが。大きな銀杏が裏手にあって、小高い城跡の丘にあった校舎がなつかしいなあ。
その古い木造校舎は二階建てだったのですが、両端と中央に階段があって、中央の階段の踊り場に、大きな油絵の肖像画の額が飾られていました。油彩だけれど和服姿の上半身像で、目力が鋭いがっちりした男性像でした。記憶がさだかではないのですが月代は剃っていず、総髪か何かだったと思います。ちょっと怖い感じで、「誰だろう、何でここに飾ってあるのだろう。」と不思議に思っていました。
「山県大弐」と額の横か下に書いてあったようです。低学年の頃は、「サンケンダイなんとか?山梨県に関係ある人かな?」などと思っていました。年長に及んで「山県」がヤマガタとは読めるようになったのですが、それでも思い浮かぶのは山県有朋ぐらいで、明治時代の人かなと思うぐらいでした。
どうして山県大弐の肖像画が田舎の小学校の階段の踊り場に飾られていたのだろう。誰か裕福な方(卒業生か保護者か、先生か)が寄付したのでしょうか。もしくは画家として名をなしたOB本人が寄贈したのかもしれません。遙か昔の思い出です。
2.最近アピールしています
山県大弐はその後、日本史の授業で、吉田松陰らに先行する勤王の思想家ということでなんとなく理解したのですが、はっきり意識するようになったのは最近です。最近という範囲がここに二三十年というのが今の私の時間感覚です。
旧竜王町(今は合併して甲斐市)が、郷土出身の偉人としてアピールしだしたのです。竜王駅前にはブロンズ像が建立されていますし、秋には「大弐学問祭り」というお祭りが盛大に開催されますし、図書館には「山県大弐コーナー」が設けられています。「大弐」という芋焼酎も発売されました。地元特産のサツマイモで作った焼酎だそうです。
山県大弐は国学儒学医学天文学兵学音楽などあらゆる学問を修めた江戸中期の人で、勤王思想を説きました。それが幕府への謀反とされて処刑されました(明和事件)。明治維新の後、正四位を追贈されるなど名誉を回復し、1921(大正10)年には生地に山縣神社が創建されました。
3.竜王駅から
12月上旬のとある昼下がり、竜王駅に降り立ちました。建築家安藤忠雄氏設計のしゃれた駅舎です。師走というもののそれほど寒くはなく、空が目にしみるほど青い。竜王は甲府盆地の真ん中ぐらいに位置し、360度周囲の山々が見渡せます。富士山、御坂山塊、鳳凰、南アルプス、甲斐駒・・・南口に降りるとロータリーの西側には山県大弐像が出迎えてくれます。横にさすり石と書かれた、書籍をお積み重ねた石材の彫刻があります。このオブジェをさすると学問の御利益がある、という意味なのでしょう。仏像や動物像などでその部分をさすると御利益があるといわれ、手垢で黒光りしているものは、どこかで見たような気がしますが、本は初めて。一番上の和本は、大弐の代表的な著述「柳子新論」。石材店の展示品みたいに真新しいけれど、そのうち黒光りしてくるのかな。
ここから山縣神社まで10分くらい?久しぶりの神社巡りです。
4.いざ参拝
適当に歩いていたらなんだか迷ってしまい、20分ほどかかって到着。シンプルな神明鳥居が迎えてくれます。
横に案内板があります。鳥居のすぐ脇のものには、由緒と「合格祈願 学業成就 交通安全 開運招福 家内安全 商売繁盛」と御利益が(恋愛や安産の御利益はないようです。)書かれていて、四隅に桔梗紋が配されています。その横には、山梨県と甲斐市の説明板と、屋根がついて柵で囲われた立派な由緒書き。こちらは土台の部分に「奉納 株式会社 サンリオ(下の部分が写真では切れていますが、多分、「取締役社長 辻信太郎」)と書かれています。
キティちゃんで有名なサンリオの創業者、辻信太郎氏の辻家は500年以上続く旧家で、武田信玄の二十四将の一人山県昌景の子孫を称しているようです。とすると、山県大弐もご先祖様ということになります。武川重太郎の「小説山県大弐」がサンリオ出版から刊行されているのはそのような関係からでしょうか。意外なものが意外な形で繋がっているのですね。
創建百年の神社ですから、境内は鬱蒼というわけにはいきません。それでも杜といえるくらいには木々が茂っています。常緑の木もありますが、冬枯れに木々の向こうに青空が鮮やかです。
手水場がありました。「国登録有形文化財」と書かれてあります。へえっこれが?ありきたりの手水場にしか見えないのだけれど。
狛犬のお出迎えの中、参道を進みます。
左手に山県大弐の像が立っています。左手に書物のようなノートのようなものを持ち、右手に筆を持って何か書いているポーズは、駅前の像と同じですが、顔の角度とかが微妙に違うので、駅前の像はこちらの複製ではなさそうです。駅前の像の方が新しいのでしょう。いかにも学問の神様のポーズですが、どうせ新しく作るならもっと別のポーズはなかったのかな、と思いました。
右手には神楽殿。鉄骨造りです。大正以降の建築ですから。切妻造の妻の部分に桔梗の紋が施されています。先ほどの案内板といい、桔梗は山県家の家紋のようです。
5.本殿・拝殿へ
拝殿の案内板がありました。「国登録有形文化財」です。本殿、拝殿、鳥居、手水舎すべて合わせての文化財のようです。手水場での疑問、納得できました。ただ、大正時代の神社建築が文化財ってどうなんだろう。本当は有形な建造物ではなく、この建造物を作り出した精神そのものを文化財として指定したのかもしれない、とも思ったりします。
二の鳥居をくぐって拝殿へと向かいます。こちらも神明鳥居。拝殿も神明造で伊勢神宮に倣っているのでしょう。桔梗の紋の幕が張ってあります。勤王の思想家の神様ですから、皇室の祖先を祀る伊勢神宮に模しているのでしょう。
私以外に訪れる人はなく、静かな中で参拝できました。鳥の囀りが聞こえてきました。脇を回って本殿も拝見しました。こちらも神明造です。
6.歌碑がありました
帰りがけに歌碑を見かけました。地元の歌人、三井甲之氏の歌碑のようです。案内板に従って読もうとしましたが、なんか変。案内板には、三井氏が酒折宮を訪ねた時に、山県大弐が建立したという、日本武尊について誌した石碑を見て詠んだ和歌が紹介されています。「勤王の志士山県大弐がたてしとふ石ぶみ見れば文字にも力あり」。あえて字余りをねらったのでしょうか、それはいいのですが、ここに立てられた歌碑には全く別の和歌が書かれています。「ますらをのかなしきいのちつみかさねつみかさねまもるやまとしまねを 甲之」。大和島根は日本の別称ですね。ひらがなでわかりやすい歌碑なので、本文自体の解説は必要ないと判断したのでしょうか。歌碑には関係ない説明で、まあ、二つ和歌を読むことができたから得した、と思えばいいかな。
やっぱり神社仏閣を参拝するのはいいなあ。気持ちがピンと張る感じがします。非日常の世界だからかな。そんなことを思って山縣神社を後にしました。
7.余談
山縣神社には何度も行ってます。息子たちの受験の時には初詣でには学問の神様へと、何年も続けて通ったものです。正月は人がごった返すほどで、焼きそばやイカ焼きの屋台なども出て賑わっていました。合格祈願の絵馬がたくさん奉納されていました。
とある正月、例年のように初詣でに行くと、ちょっと雰囲気が違っていました。どうも反社会的勢力と思われる方が二十人ぐらいで列をなして参拝に来ていたようなのです。一種特別な威圧感があって、ほかの参拝者は、ちょっと距離を置く感じで、その中を、ザッ、ザッ、ザッと帰って行きました。
その時は、別の意味で気持ちがピンと張る感じがして、非日常の世界を感じました。