甲府五山を巡る② 円光院
1.円光如日 和気似春
緑が丘スポーツ公園を後にして、山梨大学の北側の道から武田通りを上り、護国神社、愛宕山少年自然の家方面に折れ、円光院を目指します。自動車でです。途中、山梨大学教育学部(今もそう言っているのかな)の近くで甲府大飯店を見かけました。のれんが出ていました。40年前に寄ったことのある町中華です。懐かしかった。
愛宕山へ行く道は、護国神社を過ぎてから、いくつものヘアピンカーブが続いて、昔はバイクやチャリのローリング族が跋扈して危険なところだったのですが、今時ローリング族なんているのかな?スピードを落とさずカーブを攻める走り屋です。いわゆる暴走族的な人達の度胸試しだったのでしょうが、バイクに乗れない中坊(坊主頭的中学生男子)が、自転車でまねしたりして、昭和の頃の景色です。
その最初のヘアピンカーブを曲がらないで入っていくと円光院があります。甲府市のっつじが崎霊園が隣接しています。
ここには、武田信玄の正室三条夫人のお墓があります。三条夫人というと新田次郎の「武田信玄」のせいか、京の公家出身で気位が高く、お顔もあまり美しくなく、側室で信玄が滅ぼした諏訪氏の遺姫で勝頼の母であった湖衣姫をいじめたとされています。
でも、いい人悪い人なんて価値判断は全く当てにならないよね。殺人鬼が家庭ではよいパパだったり、大量殺戮者が希代のヒーローだったり、為政者が自分の政権を正当化して、前政権を悪夢のような政権とこき下ろしたり。でも、殺人者は被害者の子供から見ればいいパパを殺した人だし、ヒーローなんて共同幻想だって多くの人も承知しているし、「悪夢のような前政権」と罵った政権は、「ような」じゃなくて本物の「悪夢の政権」と言い返されるよね。事実はねつ造されない限り変わらないけど、価値観なんて何とでも変わるし、変わり続けるよね。
でもこの三条夫人、快川和尚という人が「西方一美人 円光如日 和気似春」と追悼したようだから、少なくとも一人は、美人で太陽のように明るく、春にように穏やかだと評しているんですね。
この円光が院名の由来だそうです。
石標の下壇に「復興之碑」って書いてあるから、一時期は衰えていたんでしょうね。
2.本堂参拝
愛宕山の麓というより中腹に近い、斜面に円光院はありました。駐車場も第3第4と高低差があるようで、第1に目指しましたが、よくわからず、第2駐車場に駐めました。結構参拝者が多いのですね。そこからも石段をかなり上がります。案内板ごとに三条夫人墓所とか、廟所とか書かれているのでそれが売り(失礼)なんだなと感じました。廟所と書かれた石標の下壇には花菱の紋が書かれていました。武田菱と同様、武田家の家紋です。
本堂は昭和52年再建と、新しいのものです。といっても43年前。それを新しいという筆者がすでに古い存在ですよね。合掌して二つばかりお祈りしました。でも後から考えると、大切なお祈りを忘れていたような気がします。
本堂の横の案内板は、日本語以外に、英中韓の三カ国語の解説が書かれていました。インターナショナルだなあ、インバウンドが多かったのかな。でも今はね・・・
横に鐘楼がありました。その奥には墓地が広がっています。
3.三条夫人御廟所
案内板に従って進むと、幾重にも石の柱に囲われたお墓があります。その一段下に、無縫塔という歴代の住職のお墓が並んでいますからそれより奥、一番奥に祀られています。無縫塔は卵塔ともいい、野球のバットとラグビーボールの中間ぐらいの、卵を細長く伸ばしたような形です。禅宗寺院の僧侶の墓です。禅寺に行ったら奥の方にありますから探してみたらいいかな。でも、お墓ですから見るだけじゃなく、手は合わせましょうね。
夫人のお墓は、供養塔のようで、相輪が乗っています。五重塔のてっぺんにあるような輪が連なっているものです。合掌。と、同行者が卒塔婆を見てアレッといいました。お名前に「市川猿之助」と書いてあるではありませんか。市川團十郎さんは山梨にゆかりの人だけど、猿之助さんは?確か、台が原金精軒の信玄餅のラジオのCMに出てたなあ。ってスマホで調べると、2007年に大河ドラマ「風林火山」で武田信玄を演じたんですね。四代目は。わたしの知っているのは、女形の坂東玉三郎と並び称された、ケレンの三代目市川猿之助。スーパー歌舞伎といわれていたな。やっぱりわたしは古い。
振り返ると、ここも甲府の町が一望できます。隣のつつじが崎霊園もそうだけど、甲府を愛した人だったら、町を見守りながらこういう所で眠りたいだろうなと思いました。一つ一つのお墓を見ると、南無妙法蓮華経とたたれた墓碑がありました。オートバイの彫られた碑もありました。バイクで事故死をした息子さんのためにお母様が建立したのでしょうか。十字架が刻まれた墓石や、そのまんま木で作られた十字架もありました。あんまり教義にこだわらず、いろんな方が埋葬されているようです。
4.武田信玄のお墓
見事なお庭を通って案内板の前に戻りました。すると、近くに武田信玄のお墓があると書かれていました。
信玄は、死後3年自分の死を公にしなかったそうです。黒澤明の「影武者」って映画があったな。これも昔。密かに荼毘に付されて、家臣の土屋右衛門の屋敷に隠していたそうですが、その場所が江戸時代に発掘されてお墓になったそうです。ついでに行ってみました。風林火山ののぼり旗が立っていました。山梨県人は信玄大好き。年寄りは信玄って呼び捨てにしないで、信玄公と呼ぶよ。
子供の頃、「歴史読本」って雑誌があって、父親が好きで呼んでいたので、自分も呼んだら、各県の英雄ベスト3という企画があったのだけど、愛知県は①織田信長②徳川家康③豊臣秀吉、だったのに、山梨は①武田信玄・・・後が続かない。確か②石橋湛山③小林一三かな?山県大弐だったかな?小学生にはわからないよ。
それにしても、この規模のお寺五つも集めちゃうんだから、信玄ってやっぱり偉大だ。
お昼になりました.おなかが空きました。
甲府五山を巡る① 法泉寺
1.ひさびさのブログ
西郡観音霊場巡礼が区切りがついてしばらくブログをお休みしていました。もっとも、別のブログで「religionsloveの日記」秋夜長物語などの室町稚児物語の翻訳(翻案?)なんかはやっていましたが、何ともアクセスの少ないブログで、認知度は低いですね。秋夜長物語が完結して、今あしびきを翻訳しています。内容は僧侶と稚児の恋愛物語で、古典のBL(ボーイズラブ)じゃんっていわれそうですが、興味本位ではないのですよ。中世寺院や中世社会の構造を明らかにすると共に、近代国家が鋳型にはめ込んだ性意識を見直そうという修士論文以来のテーマで取り組んでいるのです。LGBTが現代に限った事象ではないこと、それが宗教(仏教)と深く関わることを見つめようと思ったりして。なんか小難しいな。
歩くには歩いています。中野の棚田とか、平岡の棚田とかはいい景色でした。ついでに寄ったお寺や神社、古墳には面白いものがありました。ただ、ほとんど写真を撮っていなかったのでレポートできません出した。
そこで久々、スマホ片手にお寺を巡って何か書いてみようかなと思い立ちました。仏教がテーマなのですから。時間はたっぷりあるようなないような、ですけどね。
今回は、甲府五山です。数が好きなのかな、自分は。ちょっとした願掛けの意味もあります。6月21日が夏至。梅雨の合間を縫って甲府に出かけました。
2.甲府五山とは
甲府五山ってご存じですか。五山というのは禅宗で最も寺格の高い五つの寺を指すそうで、鎌倉五山、京都五山が有名ですが、甲府でも臨済宗に帰依した武田信玄が府中五山を制定したそうです。鎌倉、京都は第一位から五位まで序列が決まっているのですが、甲府五山は順位までか決まっていないようです。
金剛福聚山法泉寺 瑞岩山円光院 定林山能成寺 法蓋山東光寺 瑞雲山長禅寺、の五山ですが、長禅寺だけが現在臨済宗系の単立寺院になっています。その外は臨済宗妙心寺派です。
3.お地蔵さんに迎えられて
緑が丘スポーツ公園の体育館前の駐車場に車を駐めてさあ出発!
手元にはパソコンからプリントアウトした「早春の甲府五山巡りウォーク」の地図。甲府市かなんかが主催したウォーキングの会の資料のようです。曇ってはいるのですが時折日差しも差し、蒸し暑い。時刻は十時半ぐらいです。
地図ですと山付きにあるようなので、西から北に向かって斜面を左手に見ながら進みます。墓地や木立、大庇の建物を探しながら歩きます。途中ベージュの作業服を着た若者の一団とすれ違いました。一人だけ紺色の作業服を着た大人の女性がいて、「こんにちは」と声をかけてくれました。工業高校生が野外で測量実習をしているようです。世間は平日なんですね。高校生も日常を取り戻しているんだなあ。勉強頑張れ。
と、斜面に墓地らしきもの。お寺って結構他宗派が隣接していて間違って別の寺に行っちゃうことがあるけれど、とりあえずそこを目指します。道ばたに道祖神と丸石神、お地蔵さんがありました。白い紫陽花が咲いています。そこを曲がると山門が見えました。ここらしいです。
4.法泉寺
門の前に、法泉禅寺の石標、甲府五山の木の柱風のコンクリートの標識、案内板などがあります。立派な楼門だなと思ってよく見ると、二階部に鐘が吊ってあるではありませんか。珍しいですよね。
石畳を歩くと、左脇に羅漢さんがいました。羅漢さんは阿羅漢とも言って「悟りに達した者」を指します。この羅漢さんは十六羅漢の六番目、跋陀羅羅漢のようです。古くはないですね。どなたかの寄贈でしょうか。後ろにお名前が刻まれてありましたが、寄贈者か彫った人にようです。掲示板には、八月十六日の灯籠流しが新型コロナのため中止だとの貼り紙が、甲府仏教会の名前で貼られています。うーん、そうなんだ。準備があるから、早めに判断しなければいけないんでしょうね。
羅漢さんといえば、わらべ歌「羅漢さんがそろたら回そじゃないかヨイヤサノヨイヤサ」というのがありましたよね。子供の頃、わたしは羅漢さんがわからなくて、「落下傘がそろたら回そじゃないか」と覚えていて、落下傘がそろうってどういうことだろう?そもそも、わらべ歌ができた頃、日本に落下傘があったのだろうかと悩んでいました。そういえば薄茶色は「カーキ色」なのか「柿色」なのかも悩みましたね。
鐘楼門は、寛永14(1637)年に建立された甲府市文化財です。門をくぐると石畳が本堂へと続き、左右に石灯籠が並んでいます。
本堂に合掌。「金剛福聚山」の山号の扁額がかけられています。本堂も延宝8(1680)年建立。江戸時代のものです。
5.寺内散策
なかなか見所のあるお寺です。庭園は夢窓疎石の作庭だそうです。十六羅漢もあちこちに認められありました。探せば十六コンプリートできるかっも。六地蔵や観音様もあります。古いのが多いけれど、新しいのもあります。みんな信心深いのだなあ。わたしの周囲でそのような奉納をした話は聞きません。お金で寄付した話は多いですが。
万緑。息苦しいくらい草木が萌えています。
経蔵がありました。宝形造りで基礎がコンクリートなので古くはなうさそですが、建物自体は土蔵造りで市の文化財です。文化10(1813)年完成だそうです。中には輪蔵という回転式本棚があり、一切経が収められているそうです。その脇には金剛不動石という巨石があって、山号の由来だそうです。
6.武田信武の墓・武田勝頼の墓
裏手には墓地が広がっています。案内板によると武田信武と高田勝頼のお墓があるというので行ってみます。
武田信武は、武田家第七代、南北朝時代の人です。足利尊氏の信が厚かったようです。古いお墓ですね。後ろの鉄塔が残念。仕方ないけど。
武田勝頼は、言わずと知れた信玄の息子。武田家十七代、戦国大名としては最後の武田氏です。織田軍に攻められ、天目山で自害した後、京の六条河原にさらし首になっていたのを快岳禅師が密かに持ち帰り、紆余曲折の後に葬ったそうです。
二つの墓に手を合わせて振り返ると、下に甲府の街が広がっています。武田氏が作った街なんだ。
もう一度庭に戻って紫陽花にさようなら。
次は円光院。
西郡33観音霊場巡礼日誌補遺 十四番 大神山伝嗣院
1.再訪伝嗣院 4月になりました。時間がたっぷりできました。でも、やること、できることがなくなりました。図書館は閉館しているし、カルチャースクールは開講延期だし、コミュニティバスの定期を買ったけれど、乗るとなったらそれは不要不急の外出ということになるだろうし。病院も電話診察にしてもらって、クスリを処方してもらいました。都会では公園での散歩も密にならないようにとのこと。
田舎の良さの一つは人口密度の薄さでしょうか。体がなまるので散歩をしますが、道を選べば人とほとんど接触せず何時間も歩けますね。
ということで、歩いています。順礼は完結したのですが、今回伝嗣院を麓から上ってお参りしたので、それをレポートします。
2.麓からの道があったようです ウォーキングのためですから負荷をかけようと、今回は櫛形総合公園の駐車場に車を駐めて歩き始めました。数十台は駐車されていましたが、何百台も駐められる駐車場ですから密な感じはしません。人も少なめ。子供も少ないようです。平日だからなのかな。一斉休校と自分の立場の変化で曜日の感覚が変になっている感じです。歩いている人、ランニングしている人ちらほらいます。みんなマスクをしています。二人連れが多い。
総合公園から滝沢川を渡って西に進むと丘のへりに当たります。見上げると青いシートをかけた建物が丘の上に見えます。あれはきっと伝嗣院の前にある特別養護老人ホームの「櫛形荘」だなと目星をつけて、登り口を探しながら南へ曲がります。順礼の時は田頭集落の北側、曲輪田集落からゆるやかな坂を上がってお参りし(もちろん車でですが)、帰りは急坂を下ったので、その急坂を探しました。
500メートルぐらいいったでしょうか、深沢川に架かる橋の手前に斜めに上る道があってその脇に「櫛形荘」と「伝嗣院」の看板がありました。横にある説明板は文字の色があせてわかりづらい。お寺の由来が書いてあるのだろうけれど、ほぼ遺物がないここで、徒歩ならともかく、車を駐めて説明を読む人はいないでしょうね。色あせるのもわかります。
二十メートルほど行くとお地蔵様と、大神山の石碑、説明板がありました。遺物がないと書いたけれど、よく見ると石積みもあちこちに認められます。これもペンキの色が落ちた説明板をがんばって読むと、ここから直登する参詣道があって、それは田頭へ続く生活道路でもあったようで、最近まで使われていたようです。とはいっても説明板自体が絶対昭和の代物ですが。
チューリップ、誰かが植えたのでしょうね。自生しているタンポポもかわいいです。
確かにつづれ織りに道が延びているようです。でも行けても牛馬までですね。車輪系の乗り物が通ることができるようには思えません。 この道を分け入る勇気はないので車道を歩きます。
3.石仏 しばらく行くと 車道は急登になります。そのなりぎわで斜め左に上るやや狭い道と交差します。その道を選択しました。あるものに当たりをつけていたからです。
木々が密になってきて鳥の鳴き声も間近に聞こえます。ウグイスも個々に個性があるようできれいにホーホケキョと鳴くのもいるが、ケキョケキョとばかり鳴いていてホーホケキョにたどり着かないのもいる。西川のりおみたいにだみ声なのも。他にも魅力的な声が聞こえるが、どんな鳥かわからない。ヒバリはわかるがここにはいないようだ。原っぱの鳥だからね。夏も近づきつつあり(ほどなく八十八夜)寒くはないが、林の中は湿気を帯びた冷気が漂い爽やかだ。
道は深沢川の北を直登する道と合流する。林は途切れ、丘になっているところに大きな木が一本。緑の葉も見せているがまだピンク色の花もかなり咲いている。桜じゃないよね、桃かな。どちらにしても季節がちょっと遅い。そしてその下にモニュメントのシルエット。
実は以前伝嗣院の画像を検索したとき丘に立つ石仏を見かけたのです。伝嗣院の寺領のどこかにこんな石仏があるんだなあ、丘の上ならこの辺かと目星をつけて道を選んだのでした。
やっぱりありました。
案内板はこれも色あせていますが読めます。平成3年12月13日の日付です。目新しく「南アルプス市教育委員会」とテープで貼っているその下には櫛形町教育委員会と書かれているのでしょう。説明によると土地の人には「おでいにちゃん」と呼び親しまれている大日如来像だそうです。高さは1.6メートル、大仏とはいえないですね。富士山を向いているそうです。ここの参道は「御幸道(みゆきみち)」というらしい。
下部を二つ、上部を一つの三つの石材を合わせて作られています。柔和な顔立ちです。いいなあ。気取ってない。木喰仏や円空仏に通じる江戸時代らしさを感じます。印を結んでいますが、大日如来の印は智拳印というようです。直立した左の人差し指を右手の拳で握る印だそうですが、アレッ左右逆じゃね?
それにしてもこの石誰がどこから運んだのだろう。さぞ重かったろう。下から?上から?宗教的情熱だよね。それも理想とか理念とかではなく、もっと皮膚感覚に近い。近代合理主義に染められた僕らが失いつつあるマインド。
大日如来は宇宙を照らす太陽、万物の慈母と説かれるそうです。
「おでいにさん」みんなを救ってください。合掌。
背後に回ると、寶永歳の刻字がありました。宝永年間は1704~1711年です。宝永4年には富士山が大噴火をしています。富士山を向いてるって事は何かそれと関係あるのかな。
4.お地蔵さんみっけ 「おでいにさん」のすぐ上が櫛形荘。足場を組んで工事をしていました。ブルーシートはそのためだったのでしょう。
その上が伝嗣院。南東の角には今までいったことがなかったけれど、お地蔵さんが二体ましました。頭巾とよだれかけが赤い毛糸の手編みでした。
手編み。冬場はあったかそう。
今回はしばた君には会わないで、田頭観音を拝んで帰ります。
帰りは全て下り。楽ちん。
結願 西郡33観音霊場巡礼日誌 十四番 大神山伝嗣院
1.結願 最初の巡礼は14か月前のひと月ちょっとで、一日5、6か所巡る弾丸巡礼でした。受験生を抱えていた事情があったのですが。今回は5か月かけました。じっくり行こうと思ったのですが、徒歩ではないし、一回二か所か三か所行きましたので早くも終わりです。根がせっかちですからね。
伝嗣院を結願の地に選んだのは、最初に訪れた時の印象と、その後お礼参りに行った時の桜の美しさによるものです。いい桜だった。それに、ちょっと離れたところに桜と富士山と石仏の絶好のビューポイントがあって、カメラマンでにぎわっているのです。
本当は本堂に近い上の駐車場にとめたのでこのレポートは自分の行動を正しく書いているのではないのですが、話の都合上正面から入ったことにして報告します。(実は今までも順序を違えて報告していました。)
伝嗣院は相当寺格は高そうなのですが、「甲斐国志」の「同宗豆州賀茂郡最勝院末(五格帯封)州安一派ノ本寺定法檀本州七箇ノ一ナリ」という記述はよくわからない。五格帯封って何?州安という一派をとりまとめた本寺なのだろうが、常に法檀という立場だったのだろうか。そのような立場の寺院が甲斐の国に七寺あってその一つということかなあ。寺内には本堂、開山堂、庫裏、衆寮、禅堂、首庶寮、山門、総門があったようです。本尊は「生身ノ仏牙」(お釈迦様の歯)だそうです。七重の宝塔に蔵められていたようです。その他にも寺宝として釈迦如来木像、大般若経六百巻、茶器など。
江戸時代には門前にしだれ桜の古木があったそうで、それが枯れて根元から若木が育ち今はそれも古木となっているとか。江戸時代のことですが。今仁王門の向こうに見えるのはソメイヨシノでしょうね。しだれてはいません。
2.探訪伝嗣院 伝嗣院の門前には人家はありません。畑が広がり、眼下に甲府盆地を見下ろすだけです。参道が麓から真っ直ぐ伸びているわけではありません。檀家さんは上宮地(田頭)の方たちでしょうが、集落は伝嗣院より西にありますので、東の端に東向きにある門を通って参詣するには、ぐるっと回らなくてはなりません。実際は集落に近いところ門に回らず南から入れば、南向きの本堂にすぐ行けますし、お墓は寺内では一番集落に近い西側にあります。東側のプロムナードは遠来の参拝者や格式ある方のお迎え用で、檀家の方は南側から直に本堂やお墓にお参りしていたのでしょう。
とりあえず正面に立ちます。十段ほどの石段は幅が広く、上がりきったところ左右に新旧の石柱があります。曹洞宗とあります。お寺によっては曹洞禅宗名乗るところもあります。
上りきると左右に観音様。ずらっと観音。何十体あるのだろう。壮観です。石仏は古く観音様かどうか判然としないものもありますが、あえて別の仏さまを混ぜる必要はないように思います。割れて上部のないものや、倒れているものもあります。
観音様が尽きたところに石灯籠があって二十段くらいの石段、山門、小さなお堂、鐘楼、五分咲きの桜、裏山の青さ、奥の山はやや薄い。絵になるなあ。浮かぶ雲さえいい雰囲気。枯れた芝の参道は足に優しい。心も穏やかになります。
かつては総門、山門とあったようですが、山号寺号の石柱があたところが総門で、こちらが山門でしょうか。暗い部分、格子になっています。近寄ってみると、一対の仁王様、仁王門ですね。金剛力士はハチの巣状の網目(ハニカム構造)で写真ではわかりづらいですが、がげしい憤怒の表情、隆々とした筋骨、迫力があります。千代の富士みたい(古いかなあ)。
門をくぐると右側に六角形の小さなお堂がありました。新しいお堂です。屋根がユニークです。 金色のサッシの扉、ガラスブロックの明り取り。防犯はばっちりって感じです。左にある頭頂部に球形が乗った円筒はお賽銭を入れるところですね。貯金箱みたいな投入口があります。
中を覗くと黄金の観音様。高そうといっては失礼になるけれど、なるほど厳重にするわけですね。見ればほしくなる輩もいそうですから。それでも秘さずに見せていただけるのはありがたいことです。観音様の前に扉があって左右に掛け金みたいなのが見えますから、お彼岸だけ特別に開帳しているのかもしれません。一面の穏やかな顔立ち(一面とはお顔が一つという意味です)。手元はどういう状態かわからないですけれど、蓮の花か何かを持っていそうな感じです。観音様の中では一番オーソドックスな聖観音でしょうか。六角形にはどのような意味があるのでしょうか。衆生が転生する六道に由来するのでしょうか。輪廻転生する六道とは、地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天道です。人間道は上から二番目。仏教には六のつく言葉が多いですね。六根・六境・六塵・六観音・六地蔵・六阿弥陀・六牙白象・六垢・六時・六識・六種力・六即・六大・六道銭・六徳・六念・六波羅蜜・六蔽・六欲天。
さらに歩を進めると桜の木の元にかわいいお地蔵様がありました。この桜はまだまだですね。十段ほどの石段を上がると本堂のある境内です。振り返ると鐘楼です。こちらの鐘は本堂に向かってではなく、甲府盆地に向かってつくのですね。気持ちよさそう。特に除夜の鐘は、眼下に広がる夜景に向かってつくのだろうな。檀家さんにとっては最高の鐘でしょうね。煩悩も落ちるんじゃないかな。
実際に参詣する人は本堂と同じ高さのこの駐車場に車を停めます。見事な桜です。次の週当たりが見ごろでしょう。
本堂は何度も火災にあっているようですから、位置も規模もかつてとは違っているかもしれません。玄関の左側の戸が開けられていて七福神が置かれていました。
あっ、わんちゃん元気だ。一年前もいました。とってもおとなしい犬です。かわいい。小屋に書いてあるのが名前でしょうか、「しばた」くん。柴犬のしばたくん。
本当に見どころが多い伝嗣院です。きれいにしつらえた庭園もあります。水が張ってないのは季節だからか、張るのをやめてしまったのか。小堀遠州の作とか、夢窓疎石の作とか伝えられているそうです。小堀遠州は江戸初期の建築家・造園家であり遠州流茶道・華道の祖でもある人です。名古屋城や伏見城の天守閣を作った人でもあります。夢窓疎石は塩山の恵林寺を開いた山梨ゆかりの僧で、山梨の人(というか私の周りの人)は夢窓国師と呼びます。南北朝時代の臨済宗の僧侶ですが、優秀な弟子を輩出し、政治的にも影響力の大きかった人で、文学面では五山文学という漢詩文のジャンルに一派をなしたようです。作庭にも優れた才能を発揮しました。山梨の人は古いお寺の庭園をみると夢窓国師の作だという傾向があるような・・・
新しいものですが聖観音もあります。
こちらは経蔵でしょう。 「甲斐国志」に記述のあった大般若経六百巻は焼失を免れ現存しているようです。県の重要文化財です。コンクリート製の頑丈な建物に収められているのですね。
その左脇を奥に入ると歴代の住職のお墓がありました。中央の墓石がより古そうで両サイドに行くにしたがって新しくなっています。一番左のが一番新しく、四十世・平成二十四年の文字が確認できました。その両脇にはコの字をなすように祠やお地蔵さんが並んでいます。観音様以外をまとめたのかもしれません。
3.桜のスポット 伝嗣院の入り口に立つと本堂のほうとは違う人の流れのベクトルがありました。といっても人や乗り物がちらっほらっですが。(これは昨年の桜が満開の時。)今回も家族連れが北のほうへ歩いています。丁字路に突き当たるかどに程よい大きさの桜が立っていて、その下に4体ほどの石仏があります。今回はかすんでいましたが、よく晴れていれば背景に富士山がくっきり見えます。この季節ならしっかり雪をかぶって。家族連れ以外に、自転車に乗った先客がいました。隣地に「許可なく立ち入り禁止」の立て札があったので、許可なく敷地内に入り込んで写真を撮る人が多いのでしょうね。
4.終わりに これでおしまい。
あの人は今でも病気と闘っているのかなあ。あの子は進路決まったみたいだけど、幸せな選択だったかな。俺は自分で決めたことだけど後悔していないかな。遠くにいる家族、こんな世の中になって会うこともできないけれど(知事さんが東京への不要不急の出の自粛を要請しました)ちゃんと暮らしているかな。いや、それ以前にこの世の中どうなっちゃうんだろう。全然心穏やかな境地には到達しません。
所願成就とはいかないですね。成就したものもあれば、まだまだのものも、結局ダメだったものもあります。そうしているうちに新たな願いも生じたり。こうやって人生は続いていくんだろうなあ。
それにしても、ただ巡礼するよりもこうやって記録に残すほうがすることの動機付けにもなり、張り合いがありますね。「張り合い」は古い言い方かな。モチベーションがあがりますね。
ここで区切りがついたので、今新たに「甲州弁と古典文法」「リリジョンズラブ~ある愛の話~」「こうせい漢詩の陽だまり」といったテーマで別にブログを書こうかなあと思っています。文体を変えて。
またどこかでお目にかかりましょう。
西郡33観音霊場巡礼日誌 三十番 田頭観音 十八番 青野山耕雲寺
1.ラス前 手探り状態で始めたこのブログもあと2回で完結する予定です。4月からは時間に余裕ができるので、新しく方言、古典、漢詩でブログが開設出来たらとも思っています。
巡礼はこれで完結しますが、これを契機に仏像、仏教、郷土史にも興味の度合いが強くなりました。勉強したい。人生常に勉強です。職業にはリタイアがありますが、勉強にはリタイアはない。一生勉強です。
さてラス前、二か所訪れました。とはいっても徒歩で回れる圏内ですけれど。
2.田頭観音 西郡筋33観音霊場で独立した寺院でないのは六角堂とこちらだけです。南アルプス市旧櫛形町上宮地の小字田頭の伝嗣院から西に300メートルほどの県道110号線沿いにありました。「あぶちゃん」さんのご指摘によと伝嗣院の末(堂?)だそうです。観音堂の前には道祖神、「南無薬師如来」と刻まれた石碑、お地蔵さまなどが置かれています。地域の方々が大切に祀っているようで新しいしめ縄が掛けられています。観音堂にも。あれっ、でも待てよ。しめ縄って神様にかける結界みたいなものですよね。道祖神はともかく、観音も如来も地蔵もみんな仏様ですよね。まあ、いいけど。
観音堂は一間四方。小さくて素朴だけれど古そうです。ただドアだけは新しいアルミサッシ製です。ドアノブの横の郵便受け、写真ではよくわからないけれど、ひらがなで「おさいせん」と書かれています。なるほど!こういう使い方。
内部を覗きましたが暗くてよくわかりません。スマホをかざしてみてもガラスが反射してピントが合わず、私の顔の輪郭映ってしまいます。
3.秘仏の開帳 見えないけれど観音様はそこにいるのでしょう。そういえば霊場巡り31回、境内にある石造の観音様は見るけれど本尊の観音様は見ていないなあ。
普段公開していない仏を秘仏といいます。日開帳といって毎日公開する秘仏もあるそうですが(毎日公開したらもはや秘仏ではないだろうという気もしますが)、普通、年に一度または数年に一度、あるいは数十年に一度(日不見観音がそうですが)しか開帳しません。見せてこそ素晴らしさが伝わるのに。
素人考えにこう思います。岡倉天心やフェノロサ以来、仏像は美術品、芸術作品として評価されてきたのでしょうが、本来は信仰の対象です。見物して目を楽しませるものではなく、祈って心を(時には物質的に)満たすものでしょう。仏像制作に技を凝らすのは、人々を唸らすためというより自分の技を尽くして仏に捧げるためなのではないでしょうか。そこにおのずと霊験が宿る。霊験は安売りしない。秘仏とはそのようなものでしょうか。
だいぶ昔のことですが、身延町旧中富町の八日市場に大聖寺という古刹があって、江戸時代にはその秘仏を江戸の町で出開帳したとの文章を読んだことがあります。甲斐の国の片田舎の仏さんをわざわざ江戸で開帳したの?なぜ?江戸の人はみんなそれを見に行ったの?どうして?と、その当時ぴんと来なくてモヤモヤしていた記憶があります。今なら少しわかる気もする。今の私たちにはない信仰に対する情熱が昔の人には皮膚感覚に近い形でしみ込んでいたのではないでしょうか。ですから「おい甲斐の国からすごい仏さんが来たらしぞ。」「そりゃご利益があるだろ。行かなきゃなんめえ。」なんて会話で人々が集ったのではないでしょうか。そこには、「喜捨」や「布施」といったものの流れも付随したでしょう。
絶対秘仏といって住職以外見ることができない仏様もあるようです。見たいなあ。
4.青野山 続いて青野山耕雲寺。耕雲寺は「甲斐国志」には「伝嗣院ヨリ一層高ク西山ニ倚ル」とあります。本尊は如意輪観音です。廃寺となっています。田頭の観音堂から西に進むと勾配が急になります。櫛形山のふもとです。この山中にあったのでしょう。青々とした山。まだ三月ですから常緑樹の青さですね。杉ではないと思いますが何の木でしょう。山号青野山の由来はこの青々とした森によるのでしょうか。
山と里の境界には柵が張られていて侵入できません。「電気網使用中」の掲示があります。グーグルアースで現地の衛星写真を見たけれど、素人目には旧跡っぽい人工物はわかりませんでした。礎石ぐらいはあるはずだから分けいって行きたいのはやまやまだけれど、感電したくはありません。鳥獣保護区の柵なのか、害獣阻止の柵なのか。
柵越しに合掌。
振り返ると春霞の甲府盆地。耕雲寺から見ればもっと絶景だったでしょう。
次、ラスト。
西郡33観音霊場巡礼日誌 二十五番 平野山広誓院
1.お彼岸の中日 今日はお彼岸の中日、午前中に両親、祖父母、ご先祖様の墓参りを済まして午後の巡礼です。そうそうお昼は国道52号線甲西バイパス沿いにある「素庵」というところに寄りました。古民家風の建物で、自然食の創作料理のお店。もちもちした発酵玄米、たぶん畑のお肉かな?で作ったトマト味のロールキャベツ、曙大豆の柔らかさ、サラダも新鮮で食後のタンポポコーヒーまでボリュームたっぷりでしかも体に優しくおいしくいただきました。いいお店です。
おなかがくちくなって多少眠たいが南アルプス市旧甲西町湯沢の平野山広誓院を目指します。人家からは離れた広域農道を入ったぽつんと一軒的なお寺です。ただ、今は山間の畑が荒廃して雑木や藪が繁茂していますが、畑や棚田が整然と耕作されていたら見える風景も違うかもしれません。麓からも丘の上に立つお寺が眺められたかも。
沢沿いの道から参道に入ります。左脇に小さな祠が二つ。お地蔵さまが祀られていました。それはいいのです。でもね、確かにお地蔵さんは赤い前掛けを掛けられたり、赤い頭巾をかぶっていたりします。赤ちゃんぽいイメージですかね。ここのお地蔵さん確かに赤いものお召しになっています。でもこれサテン生地みたいといえば聞こえはいいが、テトロンのてらってらのセルロイドのお人形さんが来ているみたいな、しかも色あせた・・・襞の付き方なんかが。かなり違和感。シュールな面白さがあります。
2.天然記念物 参道を進むとお城のように石垣が積まれ、白壁で囲われた中に大きな樹木が見えます。広誓院のカヤの木は南アルプス市指定の天然記念物です。根回り14.9メートル、目通り4.9メートル、樹高は12メートルかな(葉っぱの陰で見えない)、樹齢約500年の老木。 石段を上がると、周囲を取り囲んだ白壁の内側にはずらっと観音様が並んでいました。
根元に立つと大きさ、太さを実感します。カヤの木は材質が固く木目がしっかりしているので将棋盤・碁盤に使われます。実が食べられるのですが、形状はアーモンドに似ていてちょっと苦みがあります。身延山久遠寺の門前では、お土産としてカヤ飴が売られていました。ピーナッツも混ぜて水あめで固めたものですが、素朴に味わいで好きです。甲府の大神宮の節分にも春を告げる風物詩の一つとして売られていたような気がします。
観音様を数えながらぐるっと一周。三十一体、あれっ?三十三じゃないの?てっきり一周すれば33観音霊場巡礼結願したことになります、みたいなものかと思っていました。もう二体は?広誓院はご本尊が観音様。本堂にそれがあって、もう一体がカヤの木?それはうがちすぎた考え方でしょうか。単純に二体どこかへ行ってしまったとか、そもそも寄進された観音様が初めから三十一体だったからとか、そう考えたほうがいいですかね。 一つだけ大きめの観音様がありました。珠を持っているようです。如意輪観音?
3.花の季節 日に日に春の花が開いてきます。漢詩の世界では「ひらく」には「開」より「発」を使うほうが多いようです。「発」のほうが「ぱっとひらく」感じがしますね。平仄(中国語のアクセント)も違います。油断しているとあちこちで、ぽっ、ぽっと花開いていってます。盆地を見下ろす桜は三分咲き。参道の梅はやや盛りを過ぎ、庭の水仙は見ごろ、モクレンは優しい白さを見せています。
4.ご先祖を祭る 彼岸はあの世のこと。ご先祖様の住む世界。そこに思いをはせて祭るのが彼岸会でしょうか。昼夜の時間が等しい分岐点で季節の変わり目です。暑さ寒さも彼岸までとは言いますが、まだ季節は行ったり来たりしています。春にお彼岸に食べるあんころ餅をぼた餅といいますが、ボタンの季節にはちょっと早い、なぜだろう。孔子は川のほとりで「逝く者は斯くのごときかな、昼夜を舎(お)かず」と嘆いたと「論語」にあります。すべてのものは川の流れのように過ぎ去っていきます。例外なく。どこからやってきたのかこの世に生を受けた私たちもやがてどこかへ行ってしまうでしょう。(そこが彼岸なのでしょうか。)川の流れは存在です。生きるということも、同時に死ぬということも存在です。なぜ存在するのかは問うても無駄なのでしょう。あるからあるのでしょう。お彼岸もご先祖様もぼた餅の習慣もあるからあるのでしょう。受け入れるしかないし、なくなったらなくなったらで受け入れるしかないでしょう。
祈りという行為もなぜするのか、因果の中でとらえてもうまく説明できないかも。ある姿を受け入れているだけ・・・ああ頭がショートしてきた。
とりあえず、合掌。
西郡33観音霊場巡礼日誌 十六番 金龍山普仙院
1.トタンの雨戸 普仙院は迷いました。寺社で検索するとナビですぐ近くの日蓮宗の寺院に誘導されるからです。思ったのですが、こういうお寺をどう守っていくのかな。トタンの雨戸は私の実家では五十年くらい前はそうでした三十年以上前に差アルミサッシに変えたと思います。トタンの雨戸では維持するのがつらそうな気がします。ももしくは今後大修理を目論んでいるのかな。
本尊は観音とのみ記載されてます。別称富泉院らしいです。頑張ってほしい。私は得度していないから、何ともできないし、そもそも宗派も違うからどうともできないけれど、にぎやかなお寺は楽しい。お彼岸だけど誰もいないね。みんな来ないかな。
2. 近くに古墳 何回も迷って周回していたおかげで面白い掲示に気づきました。お寺から200メートルくらい北東のところに古墳があったのです。「塚原上村(わでむら)古墳」。確かに「塚原」という地名から古墳は想像しなければいけません。 この掲示板わりと目立つよね。試してないけどQRコードついてる?生い茂った樹木を切れば円墳の形が現れると思います。石室はむき出しでした。塚原というくらいだから、ほかにも古墳があるのかも。「甲斐国志」古跡部も調べないと。
南アルプスの古墳というと、今諏訪の「おつき穴古墳」が思い出されます。上今諏訪のバス停を西に200メートルくらい行ったら公園があります。これも石室がしっかり残っています。
ここにまつらわれているのは仏教以前の人かな?でも手を合わせるのは一緒だよね。合掌。