西郡33観音霊場巡礼日誌 二十五番 平野山広誓院

1.お彼岸の中日 今日はお彼岸の中日、午前中に両親、祖父母、ご先祖様の墓参りを済まして午後の巡礼です。そうそうお昼は国道52号線甲西バイパス沿いにある「素庵」というところに寄りました。古民家風の建物で、自然食の創作料理のお店。もちもちした発酵玄米、たぶん畑のお肉かな?で作ったトマト味のロールキャベツ、曙大豆の柔らかさ、サラダも新鮮で食後のタンポポコーヒーまでボリュームたっぷりでしかも体に優しくおいしくいただきました。いいお店です。

 おなかがくちくなって多少眠たいが南アルプス市甲西町湯沢の平野山広誓院を目指します。人家からは離れた広域農道を入ったぽつんと一軒的なお寺です。ただ、今は山間の畑が荒廃して雑木や藪が繁茂していますが、畑や棚田が整然と耕作されていたら見える風景も違うかもしれません。麓からも丘の上に立つお寺が眺められたかも。

 沢沿いの道から参道に入ります。左脇に小さな祠が二つ。お地蔵さまが祀られていました。それはいいのです。でもね、確かにお地蔵さんは赤い前掛けを掛けられたり、赤い頭巾をかぶっていたりします。赤ちゃんぽいイメージですかね。ここのお地蔵さん確かに赤いものお召しになっています。でもこれサテン生地みたいといえば聞こえはいいが、テトロンのてらってらのセルロイドのお人形さんが来ているみたいな、しかも色あせた・・・襞の付き方なんかが。かなり違和感。シュールな面白さがあります。

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赤い前掛けがなんとも

 

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2.天然記念物 参道を進むとお城のように石垣が積まれ、白壁で囲われた中に大きな樹木が見えます。広誓院のカヤの木は南アルプス市指定の天然記念物です。根回り14.9メートル、目通り4.9メートル、樹高は12メートルかな(葉っぱの陰で見えない)、樹齢約500年の老木。 石段を上がると、周囲を取り囲んだ白壁の内側にはずらっと観音様が並んでいました。

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 根元に立つと大きさ、太さを実感します。カヤの木は材質が固く木目がしっかりしているので将棋盤・碁盤に使われます。実が食べられるのですが、形状はアーモンドに似ていてちょっと苦みがあります。身延山久遠寺の門前では、お土産としてカヤ飴が売られていました。ピーナッツも混ぜて水あめで固めたものですが、素朴に味わいで好きです。甲府の大神宮の節分にも春を告げる風物詩の一つとして売られていたような気がします。

 観音様を数えながらぐるっと一周。三十一体、あれっ?三十三じゃないの?てっきり一周すれば33観音霊場巡礼結願したことになります、みたいなものかと思っていました。もう二体は?広誓院はご本尊が観音様。本堂にそれがあって、もう一体がカヤの木?それはうがちすぎた考え方でしょうか。単純に二体どこかへ行ってしまったとか、そもそも寄進された観音様が初めから三十一体だったからとか、そう考えたほうがいいですかね。 一つだけ大きめの観音様がありました。珠を持っているようです。如意輪観音

 

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手前一体だけ大きな観音様は珠を持っています。

 

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 3.花の季節 日に日に春の花が開いてきます。漢詩の世界では「ひらく」には「開」より「発」を使うほうが多いようです。「発」のほうが「ぱっとひらく」感じがしますね。平仄(中国語のアクセント)も違います。油断しているとあちこちで、ぽっ、ぽっと花開いていってます。盆地を見下ろす桜は三分咲き。参道の梅はやや盛りを過ぎ、庭の水仙は見ごろ、モクレンは優しい白さを見せています。

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桜は3分ぐらい。

 

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梅は盛りを過ぎたかな。

 

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水仙

  

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モクレン

 4.ご先祖を祭る 彼岸はあの世のこと。ご先祖様の住む世界。そこに思いをはせて祭るのが彼岸会でしょうか。昼夜の時間が等しい分岐点で季節の変わり目です。暑さ寒さも彼岸までとは言いますが、まだ季節は行ったり来たりしています。春にお彼岸に食べるあんころ餅をぼた餅といいますが、ボタンの季節にはちょっと早い、なぜだろう。孔子は川のほとりで「逝く者は斯くのごときかな、昼夜を舎(お)かず」と嘆いたと「論語」にあります。すべてのものは川の流れのように過ぎ去っていきます。例外なく。どこからやってきたのかこの世に生を受けた私たちもやがてどこかへ行ってしまうでしょう。(そこが彼岸なのでしょうか。)川の流れは存在です。生きるということも、同時に死ぬということも存在です。なぜ存在するのかは問うても無駄なのでしょう。あるからあるのでしょう。お彼岸もご先祖様もぼた餅の習慣もあるからあるのでしょう。受け入れるしかないし、なくなったらなくなったらで受け入れるしかないでしょう。

 祈りという行為もなぜするのか、因果の中でとらえてもうまく説明できないかも。ある姿を受け入れているだけ・・・ああ頭がショートしてきた。

 とりあえず、合掌。

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お彼岸だからか本堂が開帳されていました。