甲府五山を巡る① 法泉寺
1.ひさびさのブログ
西郡観音霊場巡礼が区切りがついてしばらくブログをお休みしていました。もっとも、別のブログで「religionsloveの日記」秋夜長物語などの室町稚児物語の翻訳(翻案?)なんかはやっていましたが、何ともアクセスの少ないブログで、認知度は低いですね。秋夜長物語が完結して、今あしびきを翻訳しています。内容は僧侶と稚児の恋愛物語で、古典のBL(ボーイズラブ)じゃんっていわれそうですが、興味本位ではないのですよ。中世寺院や中世社会の構造を明らかにすると共に、近代国家が鋳型にはめ込んだ性意識を見直そうという修士論文以来のテーマで取り組んでいるのです。LGBTが現代に限った事象ではないこと、それが宗教(仏教)と深く関わることを見つめようと思ったりして。なんか小難しいな。
歩くには歩いています。中野の棚田とか、平岡の棚田とかはいい景色でした。ついでに寄ったお寺や神社、古墳には面白いものがありました。ただ、ほとんど写真を撮っていなかったのでレポートできません出した。
そこで久々、スマホ片手にお寺を巡って何か書いてみようかなと思い立ちました。仏教がテーマなのですから。時間はたっぷりあるようなないような、ですけどね。
今回は、甲府五山です。数が好きなのかな、自分は。ちょっとした願掛けの意味もあります。6月21日が夏至。梅雨の合間を縫って甲府に出かけました。
2.甲府五山とは
甲府五山ってご存じですか。五山というのは禅宗で最も寺格の高い五つの寺を指すそうで、鎌倉五山、京都五山が有名ですが、甲府でも臨済宗に帰依した武田信玄が府中五山を制定したそうです。鎌倉、京都は第一位から五位まで序列が決まっているのですが、甲府五山は順位までか決まっていないようです。
金剛福聚山法泉寺 瑞岩山円光院 定林山能成寺 法蓋山東光寺 瑞雲山長禅寺、の五山ですが、長禅寺だけが現在臨済宗系の単立寺院になっています。その外は臨済宗妙心寺派です。
3.お地蔵さんに迎えられて
緑が丘スポーツ公園の体育館前の駐車場に車を駐めてさあ出発!
手元にはパソコンからプリントアウトした「早春の甲府五山巡りウォーク」の地図。甲府市かなんかが主催したウォーキングの会の資料のようです。曇ってはいるのですが時折日差しも差し、蒸し暑い。時刻は十時半ぐらいです。
地図ですと山付きにあるようなので、西から北に向かって斜面を左手に見ながら進みます。墓地や木立、大庇の建物を探しながら歩きます。途中ベージュの作業服を着た若者の一団とすれ違いました。一人だけ紺色の作業服を着た大人の女性がいて、「こんにちは」と声をかけてくれました。工業高校生が野外で測量実習をしているようです。世間は平日なんですね。高校生も日常を取り戻しているんだなあ。勉強頑張れ。
と、斜面に墓地らしきもの。お寺って結構他宗派が隣接していて間違って別の寺に行っちゃうことがあるけれど、とりあえずそこを目指します。道ばたに道祖神と丸石神、お地蔵さんがありました。白い紫陽花が咲いています。そこを曲がると山門が見えました。ここらしいです。
4.法泉寺
門の前に、法泉禅寺の石標、甲府五山の木の柱風のコンクリートの標識、案内板などがあります。立派な楼門だなと思ってよく見ると、二階部に鐘が吊ってあるではありませんか。珍しいですよね。
石畳を歩くと、左脇に羅漢さんがいました。羅漢さんは阿羅漢とも言って「悟りに達した者」を指します。この羅漢さんは十六羅漢の六番目、跋陀羅羅漢のようです。古くはないですね。どなたかの寄贈でしょうか。後ろにお名前が刻まれてありましたが、寄贈者か彫った人にようです。掲示板には、八月十六日の灯籠流しが新型コロナのため中止だとの貼り紙が、甲府仏教会の名前で貼られています。うーん、そうなんだ。準備があるから、早めに判断しなければいけないんでしょうね。
羅漢さんといえば、わらべ歌「羅漢さんがそろたら回そじゃないかヨイヤサノヨイヤサ」というのがありましたよね。子供の頃、わたしは羅漢さんがわからなくて、「落下傘がそろたら回そじゃないか」と覚えていて、落下傘がそろうってどういうことだろう?そもそも、わらべ歌ができた頃、日本に落下傘があったのだろうかと悩んでいました。そういえば薄茶色は「カーキ色」なのか「柿色」なのかも悩みましたね。
鐘楼門は、寛永14(1637)年に建立された甲府市文化財です。門をくぐると石畳が本堂へと続き、左右に石灯籠が並んでいます。
本堂に合掌。「金剛福聚山」の山号の扁額がかけられています。本堂も延宝8(1680)年建立。江戸時代のものです。
5.寺内散策
なかなか見所のあるお寺です。庭園は夢窓疎石の作庭だそうです。十六羅漢もあちこちに認められありました。探せば十六コンプリートできるかっも。六地蔵や観音様もあります。古いのが多いけれど、新しいのもあります。みんな信心深いのだなあ。わたしの周囲でそのような奉納をした話は聞きません。お金で寄付した話は多いですが。
万緑。息苦しいくらい草木が萌えています。
経蔵がありました。宝形造りで基礎がコンクリートなので古くはなうさそですが、建物自体は土蔵造りで市の文化財です。文化10(1813)年完成だそうです。中には輪蔵という回転式本棚があり、一切経が収められているそうです。その脇には金剛不動石という巨石があって、山号の由来だそうです。
6.武田信武の墓・武田勝頼の墓
裏手には墓地が広がっています。案内板によると武田信武と高田勝頼のお墓があるというので行ってみます。
武田信武は、武田家第七代、南北朝時代の人です。足利尊氏の信が厚かったようです。古いお墓ですね。後ろの鉄塔が残念。仕方ないけど。
武田勝頼は、言わずと知れた信玄の息子。武田家十七代、戦国大名としては最後の武田氏です。織田軍に攻められ、天目山で自害した後、京の六条河原にさらし首になっていたのを快岳禅師が密かに持ち帰り、紆余曲折の後に葬ったそうです。
二つの墓に手を合わせて振り返ると、下に甲府の街が広がっています。武田氏が作った街なんだ。
もう一度庭に戻って紫陽花にさようなら。
次は円光院。