篁生の神社巡礼日誌③~今諏訪神社その2~

1.なぜここまでこだわるのか?上社。 

 今諏訪という土地は大まかには扇状地に一部であるが、河岸段丘的に丘の上にある。丘の上から釜無川を見おろす感じである。太古の人々は、水難の恐れのない丘の上に集落を構えて河川敷に水田を、丘の上に畑を耕作したのだろうか。上今諏訪には「おつき穴古墳」という円墳がある。小さいし前方後円墳ではないのだからヤマト王権とはあまり関係のない地方豪族の墓陵だろう。 原始の諏訪信仰に関わる部族がいたのかもしれない。もっと上の飯野牧には渡来系の豪族がいただろうから。わりとつつましく豪族を張ってたのかな。証拠はないから空想の域だけれど。この辺、社が多いみたい。

 上社を訪れました。案内図を見ますと、上が北の地図なのに神社の敷地の中だけは南北が逆に(視線に準じた方角で)描かれているのでとまどいます。

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たぶん五本杉です。

2.本殿参拝

  五本杉は何が五本かわからない。続いて原山祠と夫婦石がある。別所から移した世である。地図とは違うけれど左側に相撲辻がある。辻ってなんだ?案内板にはそう書いてある。

  あれっ、鳥居の写真がない。うっかり。

 手水場、随神門、社務所と通り、拝殿に向かう。唐破風の厳めしい拝殿です。

 

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夫婦石の左が切れたしまいました。もう一つ石があります。

 

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もう相撲は取ってないんだろうな。

  

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案内板です。

  

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手水。

 

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随身門。

  

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社務所

  

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拝殿は唐破風?

3.神社建築 

 二礼二拍手一礼。

 神社の造りには屋根の平らな部分を正面に見せる神明系と三角に見える部分を正面に見せる大社系があるようです。わたしの印象としては神明系がほとんどの気がしますが。

 この神社も正面が三角ではないよな、と思って脇を通って本殿に向かいます。と、あれっ、拝殿の後ろ、大社造りの向きじゃないか?それに続く本殿も大社系だよね。どうしてだろう。もうちょっと神社巡りを重ねるとわかってくるかな。

  祠もお蔵もいっぱいあります。

 おもてのバス通りは初詣の準備。できるのかなあ。

  

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本殿の向きが?

  

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御柱祭の様々なものが入っているお蔵みたいです。

 

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大きい方は読めませんでしたが、真ん中のは二十三夜塔と書いてあります。

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初詣に備えて幟が立っていました。+

 4.十三所社、春宮、秋宮、中島社。

 本家の諏訪神社には、上社に本宮と前宮、下社には春宮と秋宮があるようだが、「甲斐国誌」によると今諏訪には、春宮、秋宮、御柱宮、雨宮の四つの末社があったという。雨宮は雨乞いの神様の一つだろうがどこにあるかわからない。

 たぶん巡幸の時にはそのお宮を訪ねてのだろうなと、回ってみた。北に進む。

 旧十三社がアルプス通りの南側にあった。十三所社は移したらしく、 アルプス通りの 北側に新しい十三所社がある。 十三所社には春宮が末社としてある。道路の拡張かなんかで移築したのなら旧社があるのが不思議だ。春宮はそれとおぼしき祠が二三あったがどれかわからない。「当(當)邑中」という刻字が気にかかる。どういう意味だろう。

 更に北に進むと秋宮、中島社があった。小さな祠だが、本家に準じようとの気概かなあ。きれいに管理されていた。損得ではない人の営みを感じる。個人の感想だが。

 さて、次はどこへ行こうか。


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旧十三社。

  

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現十三社です。

 

 

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春宮かなあ。當邑中ってあるね。

  

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沿革です。

  

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それともこれが春宮?

 

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秋社?

 

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當邑中って何?

 

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これが中島社。最後です。

 

篁生の神社巡礼日誌③~今諏訪神社その1~

1.諏訪って国知ってた?

  日本史の資料集には「諏訪国」ってないよね。でも、あったんです。721(養老5~731(天平3)年の間だけだけど。信濃国から分離して行政区分になっていたらしい。上総国安房国みたいな感じでしょうか。でも十年で廃された。歴史にもしはないけど、信州が長野県と諏訪県に分かれていたら近代史も多少違っていたかも知れない。

 ただ、分けるのにはそれなりの理由があったんだろう。信濃が広いというだけではなく、諏訪という地域の独自性もあるなではなかろうか。諏訪大社は出雲系の神様で全国的にも存在感のある場所ではなかったろうか。

 諏訪大社は全国に2600社とも5000社ともあるという。諏訪神社の総本社で、7年に一度の御柱祭が有名だ。寅年と申年の12年に二度の祭りなのに、7年に一度というのは何でだろう。その大社の祭りの年に合わせてこの今諏訪の諏訪神社御柱祭を行う。

 2.今諏訪の御柱祭

 わたしは今諏訪の御柱祭は見たことはないが、子供が小さい頃地区の育成会の会長をしていて、白根地区の「桃っ子祭り」の親として参加した。飯野地区は「桃っ子太鼓」という、倉庫町の「高尾祭り」を下敷きにしたと思われる 太鼓を披露したのだが、今諏訪地区は御柱祭の「木遣り唄」を披露していた。哀愁を帯びたいい唄だなあと聞いていた。

 「白根町誌」によると、今はどうかは知らないが、出版当時(昭和五十年代か?)は盛大な祭りだったようで、祭りの部に詳しく記されている。それによると祭りは、上今諏訪の上社から、「お船」「御柱」「神輿」「万灯」「子供の行列」「娘の行列」「山車」の順で村内を練り歩き、下今諏訪の下社も同様に練り歩き、御柱社で合流する。祭りは最高潮に達し、やがて終わる。4月4日に行われるようである。山梨県内にも諏訪神社は多いが、これほど丁寧な御柱祭ないようである。かつては釜無川御の向こうの白井阿原まで渡ったそうであるが「甲斐国誌」によると増水で神輿が帰ってこられな苦なって以来村内での巡幸になったようである。一度見てみたい祭りだ。

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下社の鳥居は明神造り?

 3.諏訪神社下社 

 諏訪神社を訪れたのは令和2年12月10日だ。冬晴れのさほど寒くない日だ。コミュニティーバスはくねくね回りながら下今諏訪のバス停に着く。鳥居は台輪がないから神明鳥居ということになるのかな。右側には別の入り口があり、柱が二本立ち、横木を渡して注連縄が張ってあった。全体的に新しい感じだ。

 入ると左にうずたかく盛ってあるところが見えた。土俵だろうか。相撲って神事だからそうかもしれない。でも今の子は相撲なんて取らないよね。

 正面にある拝殿は朱塗りの柱が鮮やかだ。昭和40年代の竣工らしいが手入れがいい感じだ。摂社・末社がたくさんあるが何が何かはわからない。わりとしっかりした社があったが確認はできなかった。

 本殿は流れ造り、古そうです。秋葉権現、蚕天大神は確認できました。養蚕業が盛んだったからでしょうか。

 下今諏訪の方はここで神事を済まして村内を練り歩いたのでしょう。祭りって異常な興奮をきたすよね。学園祭とかも。 

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土俵みたいです。

 

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拝殿は新しい。

 

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本殿です。

 

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蚕影大神、養山の神様。

 

 

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秋葉さん

 

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3.御柱社 

  今諏訪の幹線道路はいわゆるバス通りですが、通りに戻らず小径を通って御柱社に向かう。かけ声に合わせて三歩五歩と歩むようであるから、ゆっくりと村を歩むのだろうが、夕刻頃衝くのが御柱社である。ここにそれぞれの柱を立てる。下社の柱の法がやや短いが7メートル以上ある。今子年だから、(年が明けて丑年に書いているけれど)柱はやや古びている。再来年には新しい柱になるのだろう。

 御柱社の敷地は広場か公園のようで整地されている。祭りの時にはここに何千という人が密集し歓喜の時を過ごすのだろう。由緒書きによると平成16年に修繕か改築したようだ。

 左にあった末社熊野権現であった。

 引き続き上社にGOーTO。

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本殿のみです。

 

 

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御柱社の由緒です。


 

 

 

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高さが実感できます・

 

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脇にあった祠。熊野権現神社。

 

篁生の神社巡礼日誌②~若宮神社(飯野の氏神様)~

1.わが氏神

 十一月のとある穏やかな午後、飯野の若宮八幡神社に参詣した。あまり寒くならないなあ。今年も暖冬かな。「日本の神社100選」という雑誌によると、全国で一番多い神社が八幡信仰の神社だそうだ。7800社以上あるらしい。第一回でレポートした桃園神社もそうだった。

 桃園神社も桃園村の村社だったが、この若宮神社も飯野村の村社である。いわゆる「村の鎮守の神様」だ。我が家からは徒歩で二十分ほどである。大晦日には飯野各区から集まった氏子総代や祭事部の役員が初詣の準備をし、住民の全戸に(アパートとかは配られないかも知れないが)お札が配られる。成人式には地区の新成人が集まって、お祓いを受けてから市の成人式に向かう。お盆過ぎの二十何日だかには、各区が組み立てた櫓に提灯を飾り電灯をともし、「お灯籠祭り」をする。村の神様だ。

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参道は、途中まで普通の道路。

 

 2.参道を行く

 参道の入り口に石柱がある。裏には、「お灯籠祭り」の説明が書かれている。お灯籠祭りは、昭和の頃一時祭りが中断されていて、復活されたらしいので、その頃立てられたのだろうか。祭りの時には、櫓が十基近く並び、彩色を施した多くな提灯が並び、(灯籠といったほうがいいのかな)一般的な丸い提灯はその何倍も飾られて、去りゆく夏を惜しむように輝く、壮観な光景である。人並みもそれに劣らず多い。

 祭りの時には車両は通行止めとなり、灯籠の下には各区の人達が集まっては飲食を楽しむ。屋台も立つし、盆踊りや花火もある。しかし、普段は二車線の生活道路である。鳥居の手前で東にカーブする。

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  鳥居にも様々な種類があるようだ。この鳥居は一番上の横木(木ではないが)が反っている。笠木と島木というらしい。左右の柱がその横木と接合する部分に輪のようなものが見える。これは台輪というそうだ。鳥居は祭神にかかわらず、神社によって様々な鳥居が採用されているらしい。八幡鳥居というものもあるようだが、これは台輪鳥居というもののようだ。鳥居も要チェックだね。

 

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由来が書いたあります。

 鳥居をくぐる時に脱帽して一礼。マナーであるが、物の本で読むまでは誰も教えてくれなかった。わたしの周りには信心深い人は少ないらしい。左手に由緒の書かれた掲示板。まだ村が飯平という山付きの場所にあった頃からの氏神様であったようだ。村ぐるみの移転によってここに鎮座されたらしい。飯平は訪れたことがあるが、今は人家はなく、桜を植えて公園っぽくなっている、御台扇状地を見下ろせる小さな丘陵という感じだ。三大王子神社という小さな祠があった。 

 参道には人気はなく、石灯籠と落ち葉が迎えてくれる。その向こうに「随身門」。ここのは「随神門」ではなく、「随身門」らしい。違いはなさそうだ。由緒書きと同じく

左手に手水がある。ちょっと驚いたのは、由緒書きも手水も随身門も屋根が銅板葺きであること。お金かかっているなあ。こういう驚き方は不謹慎? 

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落ち葉の季節。

 

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手水も屋根は銅板葺き。

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随身門。

 

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随身です。随神とも。

 

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ちょっとピンぼけ。いやかなりピンぼけ。

 

3.随身門から拝殿へ

 随身はとても鮮やかです。最近お色直しをしたのでしょうか。随身をその気になって見るようになったのは最近ですが、右側の神様は白い長いひげを生やしていて、左側は黒い短いひげでやや若めですね。そういえばおひな様の右大臣左大臣もそうかな。そして、随身は台のようなものに座っていて、右神は右足を曲げ左足を垂らし、左神は左足を曲げ右足を垂らしています。そういうもののようです。

 随身門をくぐって拝殿へと向かいます。

 右側に説明を書いた立て札がありますが、旧白根町文化財指定のいきさつが書いてありました。本殿が(奥の小さな社ですが)桃山時代の風を残す江戸初期の建築を説明しています。町村合併で市になったので新しく表示を貼ったようです。 

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拝殿です。

 拝殿だって、そんなにおろそかにするものではない。安政年間に立てられたものらしく、前にある石の狛犬だけでなく、登壇する階の左右の柱の上を見ると、狛犬の彫り物がある。意匠凝らした装飾である。阿吽がはっきりわからず対照が認められないのは、下から見上げているからであろうか。光線の加減か情けない表情に見せる。(素人の印象でごめんなさい)ただ、中央の龍は見事ではないかな。たぶん江戸時代の職人は、名もない宮大工でもこのような細工はできたんだろうな。いや、名工かも知れない。 

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階段の左右に狛犬の彫り物。

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龍かな。

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龍ですよね。

4.本殿その周辺 

 かつて、息子が帰省中に、友達からメールが入った。南アルプス八幡宮の本殿を見学に来ているとのことだ。友達は大学の建築学科の学生だそうだ。そんなご立派な神社があろうとは思いも寄らなかったが、どうもこの若宮らしい。本殿は「一間社流れ造り

」というらしい。学生が見学するに値する名建築らしい。良さそうな感じだが、わたしが評価するにはもう少し目を肥やす必要がありそうだ。よくわからん。 

 大体、本殿と拝殿を間違えていた。大きな正面にあるものが本殿で、奥にあるちっちゃいのが奥殿と思っていた。本当は奥の小さなご神体を納めているのが本殿で、前にある人が上がり込んでもいいところがハイデンで、次の大統領がバイデンなのだ。たぶん、切り妻造りのいい社なのだろう。大正だか昭和だかに解体修復したらしいので、資料も残っているのかな。

 お祭りでは、本殿は、誰も見ない。神社は見るものではなくて拝むものなのだろう。

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本殿、東側より。

 

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本殿、西側。

 

 

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どなたの句碑でしょう。九十三才と書いてあります。

 

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地元の名士、飯野燦雨さんの句碑です。

  境内には、いくつかの石碑があった。句碑(俳句の盛んな地です。)モニュメントの由来など。この地が由来というわけではなく、ここに来た人に地元の事跡を知らせようとう意味合いしい。

 摂社は山の神。「冨士浅間大神」の石碑も隣にある。

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水分石とか。

 

 

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摂社です。

 

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山の神?

 

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冨士浅間大神

 5.三宮神社

 「甲斐国寺社記」によると、若宮には摂社として、築地新居の神明宮と本社西にある三宮神社があるそうである。神明宮はわからないが、三宮神社は確認できた。というのも、毎年お札を配られるときにほんとに薄っぺらであるが、三宮神社のお札も添えられているのである。社記には「祭神相不レ知申候」とある。

 以前にも参拝したのだが、今回も寄ってみた。

 若宮八幡宮の西、200メートルくらいかな、ぽつんと感じである。でもどなたかが丁寧に管理しているらしく、とてもきれいだ。鳥居や社の柱が真っ赤だ。「奉納」と書いてある、賽銭受けのようなものにミニチュアが捧げられている。これは狐の人形かな?

 奥殿と言っていいのか、石祠の両脇には狐。お稲荷さんらしい。誰かが誠実に祀っているのだろう。

 その見えない姿が、美しいと思う。

 次はどこを参ろうか。

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摂社かな、末社かな、三宮神社

 

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鳥居には三宮神社、赤いなあ。

 

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おや?賽銭箱に狐?

 

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本殿は石祠。脇に見えるのは狐だろう。

 

 

篁生の神社巡礼日誌①~桃園神社~

 1.今度は神社をめぐります

 ネクタイを締めなくなって、時間に追い立てられる生活から解放されてみると、一日一日が不思議な早さで過ぎていく。焦って焦ってもうこんな時間だっ、ではなくてあれっもう月曜日だ!という感じだ。時間にあらがうことなく生きていけるのは幸せだ。まあ、また忙しい日々が来ることもあるかも知れないが、今は自分の時間で生きていこう。

 別のパソコンで室町時代の稚児物語を現代語訳したり、翻案したりするブログを書いている。「リリジョンズラブ」などというサブタイトルをつけているが、それほど読まれていない。まあ、一生国語の勉強はしていくつもりで、自分のために研究しているのだから、それほど気にしてはいないが、プリントと辞書とパソコンとずっとにらめっこしているのは気にしている。あっ漢詩も。根を詰めて机に向かっていると体が固まる。

 外に出なきゃ。

 ということで、どこか歩いてレポートすることを再開しようと思った。では何か。グルメレポートじゃないよね。柄じゃない。山歩き、ハイキング?若い頃には南アルプス八ヶ岳に登ったからそれは好きだけど、今は視力に自信がないからパス。

 お寺の次は神社でしょうか。お寺を巡ってレポート書いて、書くとなると色々調べて勉強になった。それなら今度は神社で勉強しよう。

 基本、自分の行動範囲で神社を巡ろうと思う。わざわざそのために出かけるのではなく。最近願い事が少なくなった。それでも時々ぽこっとあぶくが出るように願い事も浮かんでくるから、そんなささやかな願い事を持って神社に出かけよう。

2.まずは桃園神社

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正面の鳥居です

 

 桃園神社は自宅から徒歩25分程度、往復で50分ほどの所にある神社である。まずはこの神社から。おそらくわたしが一番多く参詣した神社である。距離がウォーキングに手頃であること、歩きやすい道であること、これが理由に一つ。五、六年前に通った新しい道が歩道があって歩きやすい。ウォーキングしている人と行き交う。

 もう一つは、「家族お百度参り」をしたからだ。桃園神社には境内に石の祠であるが、摂社の天満宮がある。子供の受験の時に「お百度表」なるものを作って誰でもいいから参詣したら○をつけるということで、百回を目標にした。わたしたちには散歩、子供にとっては受験勉強の気分転換のためのジョギングとしてお手頃であったのだ。天満宮は言わずと知れた、学問の神様菅原道真を祀った神社だ。

 御利益があったかどうか?いいこともあったし、よくないこともあった。

 ただ言えるのは、スマホで受験情報を調べてあれこれ考えてやきもきするよりも、何も考えずに歩いていた方が、気持ちがすっきりしたと言うことだ。

 

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杜はかなり広いです。

 

 

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院宮桃園神社と書いてあります。

 

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境内図。

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案内板です。

3.初冬の桃園神社

 季節は立冬。しかしそれほど寒くはない。空は抜けるように青い。南アルプスコミュニティーバス芦安線、桃園神社バス停で降りる。コミュニティーバスは南アルプスのほぼ全地域を網羅するコミュニティーバスで本数こそ少ないが、一回一律百円、年間定期三千円ととてもリーズナブルなバスであるが、利用者はさほど多くない。わたしはよく利用する。

 石(コンクリート製?)の大鳥居の前に立つと杜の清浄な空気が杉の香りを伝えてくる。杜とは言っても地所自体が平坦で、植林の林であろうと思う。元々は清和天皇の皇子、貞純親王の食封であったというから、平坦な耕作地であったろう。

 石碑には「院宮 桃園神社」と刻まれている。貞純親王は皇族だから「院の宮」邸宅が京都六条桃園にあったので「桃園の宮」と呼ばれたらしい。その貞純親王を祀った神社である。鳥居の右に境内図が掲示されている。以前は字の部分のペンキが薄くなっていてよく読めなかったが、そこに文字の書いてあるプレートが貼られていてよくわかる。あれっ、随神門の手前にあった祠は天神社だったんだ。奥にも石の祠の天神様がいるのに。案内板にある神明宮かなと思っていた。

 脱帽して一礼、鳥居をくぐる。樹齢はどれくらいだろう、木々は高く昼でも深く、鬱蒼とまではいかないが、日差しを遮っている。案内板を拝見。桃園村の氏神であるようだ。貞純親王以外にも大国主命仁徳天皇も祀られているようだ。「

 「甲斐国志」は江戸時代に編纂された甲斐国の地誌だが、そこには「若宮八幡宮」と記されている。桃園神社とは書かれていない。桃園村の村社となったのは明治六年であるそうだから、本来は「若宮八幡宮」だったのだろう。

 若宮は電子辞書の「ニッポニカ」によれば、①本宮の御子を祀る社であるという、八幡神応神天皇と比定されるから、その御子、仁徳天皇を祀る神社となる。②本宮の分霊を祀ったともいう。そうすると、どこが本宮となるか、いずれも八幡宮を守護神とした源氏の神社であろう。八幡様は戦の守護神だったと、幼い頃、誰かに教えられた記憶がある。遙か昔のつたない記憶なのだが。

 何で八幡様かというと、この貞純親王の御子が「源」賜って臣籍に下った。皇族もべらぼうに増えると財政的に困るから、姓を与えて普通の人になってもらう。後は自分の経済力で生きていけということになる。皇族でも品位が与えられる親王だと食封が得られるが、無品親王だと食封は与えられない。プライドは保たねばならないのに生活は不如意なみじめなものだったらしい。貞純親王の子は「経基王」から「源経基」となって清和源氏の祖となったという。甲斐源氏武田氏もこの系譜に連なる。わたしの故郷、身延町下山も甲斐源氏穴山氏の城下で、氏神は八幡様だったと思う。山梨には八幡様が多い。調べたわけではないが、若宮八幡も南アルプス市にはけっこうある。そのひとつかも。他の若宮八幡宮と差別化する意味で桃園神社の名称を使うようになったのかも知れない。

 この神社はいつもきれいに清掃されている。砂利道には日本庭園のような熊手でならされた筋が整然と描かれている。まっすぐ伸びた参道には灯籠が並んでいる。氏子さんの寄進らしい。落ち葉を踏みながら歩くと、一本だけ斜めに伸びた木があった。杉だと思う。ちょっと不思議な光景だ。想像するに、暴風か何かで倒れかかった木が、他の木に当たって止められて斜めになったまま再び根付いて生きているのかなあ。あんまり見たことのない、斜めにまっすぐな木である。よく、訳知り顔の大人が、「天を衝く大木のようにまっすぐ生きなさい。」なんてお説教するけど、斜めにまっすぐ生きる生き方ってあるのかな?どんな生き方だろう。

 

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斜めの杉。生きています。

4.参道を行くと 

 参道を行くと左手に手水屋があり、その先に小さな社殿がる。小ぶりながら瓦の屋根は見事だ。賽銭箱はない。

 その先に随神門がある。門の左右の格子の中に神像が祀られている。お寺の本尊とは違って神社のご神体は剣や鏡が多いらしいから、仏像とは違って神像は少ないよね。格子の中をのぞくと雛人形の右大臣左大臣のような感じだ。右大臣左大臣随身だから似ていて当然か。右側が口を半開き、左側が口をぎゅっと結んでいる。狛犬や仁王像の阿形・吽形と通ずるのかな。それぞれ剣と弓を持っているようだ。左側の神様には名前が書かれた札が添えられている。薄くてよく読めないが、かろうじて判別できる「磐」の字を頼りにその上の「櫛」も類推してスマホで検索すると、「磐」の下のうかんむりだかわかんむりだかの字は、「窗(まど)」で、「櫛磐窗命(くしいわまどのみこと)」らしい。すると、右神は「豊磐窗命」で、ペアの門番神のようだ。勉強になる。しかし、スマホやパソコンのなかった頃だと、これだけ調べるのに何日もかかったかも知れない。わからずじまいになる可能性も多い。すごい時代になったものだ。すごい時代がいい時代だとは思わないが。

 仏像と違って、慈愛に満ちた表情ではない。ちょっと参詣者を睥睨する感じ。神像ってあまり見る機会がないから、鑑賞眼の根拠はない単なる印象だが。

 随神門を過ぎると、右に向かう小径がある。曲がって進むと注連縄で結界された囲いの中に「夫婦樅」があった。二本並んだ巨木だ。桃園神社のあたりは建物が少なくその杜はかなり遠くからも見える。こんもりと広がっている中で、確かに二本だけ抜きん出た木が認められる。それがこの樅だ。鳥居の向こう、二本の木の真ん中に石の祠があり、手前に木をくりぬいた賽銭受けがある。礼拝。

 自然木ではないのだろうが、よくここまで大きく伸びたなあと驚く。誰かのお手植えとかのいわれがあるのだろうか。足下に目を落とすと、ツワブキが黄色く鮮やかに咲いていた。ツワブキ冬の花だ。蜻蛉が飛んでいる。

 

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門があります。

 

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随神右。

 

 

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随神左。

 

 


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ご神木の夫婦樅。

 

 

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石蕗(つわぶき)は冬の花です・

5.本殿参拝

 再び参道に戻って本殿に向かう。左手に社務所があり、その横におみくじがたくさん結われている「おみくじ掛け」がある。平素はひっそりとした神社だが、初詣でには賑わうのだろう。社務所も開かれておみくじやお札、お守りや浜屋なんかを販売するのだろう。販売といってはいけないな。「初穂料」を納めていただいて「授かる」のだな。

 本殿に向かう。正確には手前が「拝殿」奥にあるのが「本殿」。左右の狛犬が迎える。二礼二拍手一礼。見慣れた光景だ。何度来たのだろう。 

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拝殿です。

6.摂社 

 摂社というのは本社の境内にある別の小さな神社のことである。境内の外にある境外社というのもあるらしいから正確な定義は別として。それなりの神社には摂社も多くあるから、全部廻れば所願成就、お得な参拝となる。

 桃園神社の摂社には、神明社天照大神、全ての神の大本、太陽神)、天神宮(菅原道真、学問の神様)、稲荷神社(五穀豊穣、商売繁盛の神様)、大山大明神(雨乞い、水の神)、駒ヶ岳蔵王権現修験道の守護神)、六社神社(六つの祭神を合祀したもの)がある。神明社だけはどこにあるかわからない。本殿に合祀されているのかもしれない。こりゃかなえられない願いなんてないよね。

 それだけじゃなくて、摂社よりも社格に低い末社が十二神、石祠として祀られているようだ。

 では摂社巡り。

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駒ヶ岳蔵王権現の石碑と八幡社と書かれた鬼瓦。

 この石碑には、駒ヶ岳蔵王権現の刻字が確認できた。左の鬼瓦には八幡宮と書かれています。何代か前の本殿の瓦でしだろうか。ここは修験道とは縁遠い感じだが、どこからか移したのかな。 

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六社大明神は跡だけです。

 六社大明神は消失してしまったというけれど、だから、かつてはあったんだろう。六社って単なる寄せ集めなのか、定まった六社なのか、ちょっと調べたいね。 


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お稲荷さんは豊作の神。

  六社も蔵王も向かって右側。その奥にお稲荷さんがあります。本尊は石祠だけれど、鳥居や諸々の付属を見ると、祈りの重点がかかっているのを感じます。


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大山神社

 大山神社はちょっと調べただけでは、どういう神様なのかわかりませんでした。水に関する神様なのに、大山、どなたかに教えていたたらと思います。ずらっと横一列に石祠が並んでいて、ちょっと大きな祠に賽銭が多く供えられていたので、これが主神なのかと思うだけです。

 大山神社を右脇に正面にあるのが天神様。ここ、何度も祈ったなあ。祈るって努力を放棄することではないんだよね。祈るだけではだめ、でも頑張るだけではだめ。かな。 

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天神社

7.その後

 さっそくにレポートしようと思って抜かりがありました。本殿というか奥殿というか、拝殿の奥の建物の写真がありませんでした。日を改めて行きました。夕暮れです。更に物足りなくても一度行きました。 夜です。

 新しそうな本殿の前に元々の古い本殿らしきものがあります。桃色?ちょっとわかりません。角度を変えると西日が輝いています。

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奥殿。

 

 

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奥殿残光。

 夜の参拝も何回もしたなあ。久しぶりに夜に訪れました。常夜灯かなあ、ソーラーライトかなあ、いい雰囲気です。 

  第一回だから盛っちゃったかな。たくさんレポートしました。

 お近くの人は是非行ってみてください。

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夜の神社。

 

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常夜灯かな。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甲府五山を巡る⑤ 長禅寺

1.ウォーキング

 

 五山巡りは参拝が目的ではありますが、ウォーキングの意味もあります。コロナ以来というかリタイア以来というか、意識しないと体を動かさなくなっています。特に梅雨に入ってから。能成寺に車を駐めて、能成寺、東光寺、長禅寺と回って能成寺に戻ってくると距離だけで5.5キロ、午前中に歩いた分と境内の中を歩いた分を会わせると結構な歩数になるでしょう。晴れたり曇ったりですが、紫外線は強そう。紫陽花は優しいのに。

 帰命院の前を通り、能成寺の前を通り過ぎて隣の誓願寺を見ると寺内の保育園ではお昼寝の後でおやつを食べていました。ここは三つのお寺が並んでいるのです。中央線の側道まで行くと今度は来迎寺というお寺がありました。浄土宗のお寺です。浄土宗が多いな。

 線路沿いに歩くと、やや上り坂、金手駅という小さな身延線の駅を通ります。すごく小さな駅で、最寄りの東京電力の社員のためだけに作られたという噂は本当なのでしょうか。坂を下ると甲府中心に来た感じがします。高層ホテルが見えますが、最近オープンした城のホテルでしょうか。

 

 

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長禅寺とうちゃこ。

2.長禅寺とうちゃこ。

 

 中央線で甲府竜王に帰るとき、必ず甲府駅の手前で五重塔を見ますよね。あれをいつか間近で見たいと思っていました。心当たりの方は多いでしょうね。あれが長禅寺です。石碑がありました。「北堂」とは正室の母という意味でしょうか。「塋處」はお墓のことでしょう。普通の語彙として使っていたのかな。無学の人にはわからんだろなと、わざと難しい漢字を使っていたのかなあ。それともこのくらいの漢字は当たり前に読めたいたのかなあ。わかりません。信玄は、幼少の頃ここで学問に励んだようです。出家して「機山公」と名のった場所のようです。

 

 

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巨大な門です。

3.一番かな

 

  こう言っては失礼かもしれないけど、長禅寺の山門を見たとき、それは、中央線や身延線のガードを過ぎて右を振り向いていたときですが、巨大な木組み門に驚きました。でも、三内丸山古墳みたいに丸きむき出しで細工がないような感じ。それもいいけど、西郡のちっちゃな寺なら、十個ぐらい作れる材木だなあと思ってしまいます。

 府中五山では、順位が決められていないとはいえ一番規模が大きい長禅寺、小さな門や鐘楼、一本柱の東屋風の建物があります。小さな門の前には恐ろしく長いベンチ、何かで切り出した一枚板のようです。全体的に、整備中らしく廃材や工具が見えます。

 根元すぐからぎゅっと曲がった松は面白いよね。

 

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門がいくつもあります。

 

 

 

 

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鐘楼もお寺によって様々です。

 

 

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工事中みたいだけどなんだろ。

 

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松の曲がり具合がすごい。

4.塔がいっぱい

 小さな門を迂回するように右から回っていくと、三重の塔がありました。文化財の指定はないようなので古くはないのかも知れません。でも、塔っていいよね。最近再建した身延山五重塔もいいし、外国人に人気の富士吉田の忠霊塔も本当の意味はわからないけど、景観はいい。

 塔を過ぎると、本堂があります。中に入れないようなので、遠くから合掌。

 だんだん純粋な気持ちが薄れて、ただ形式的に手を合わせている自分が嫌になります。焦らず、ゆっくりゆっくり。

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三重塔

 

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本堂

  本堂と左右対をなすように、三重塔の反対側、西には宝形造りのコンクリートか漆喰の堂があります。これは経蔵だろうな。お経を収めているお蔵は耐火性を重視しているから。違うかな。いずれにしても貴重品が入っているのでしょう。

 その西側に五重塔。平成2年再建だそうです。格好いいです。

 城郭などもそうだけど、礎石や石垣を見ると、そこに立てられていた建造物を再現したくなります。先日、甲府城天守台に上ったけれど、入り口の石垣がすごく想像力をかき立てられました。ここに天守閣があったなら。

 学者は客観性を重視するけど、愛好者はロマンを求める。どう折り合いをつけるのかな。

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経蔵かな。

 

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五重塔

5.大井夫人のお墓

 

  大井夫人は武田信玄の母、西郡の国人大井氏の娘で信玄の父、信虎の正室です。信玄はここで幼い頃、学問を修めたようです。

 大井夫人のお墓の参道は、枯れ枝が落ちて危ないから通らないでくださいとの掲示がありました。でも、通らないでくださいとあるだけで、行ってはいけないとはないのだから、回り道すれば行けるのだろうと横の道を進みました。同行者は帰ろうと言いましたが。

 その直線の参道と迂回の道が交わるあたりに、ちょうど本堂の真裏あたりに、八角の四重の塔がありました。えっ四重の塔?ないよね。一番下が裳階なのかな。それにしても、どうしてこんな目立たないところに立っているんだろう。古くはなさそうだけど。

 迂回した後の道は、敷石が続く歩きやすい道でした。その先に大井夫人のお墓がありました。新しいですよね。ちょっと他のお墓とは違った。

 お供えの飲み物は、「おーいお茶」でした。大井かな。しゃれなのか偶然なのか。

 

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参道は枝が上から落ちるから迂回せよとの立て札がありました。

 

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ひっそりと四重塔?

 

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大井夫人のお墓です。

 

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おーいお茶でした。

6. おわりに

 

 なんだろう。達成感はありますが、ちょっと違う感じがする。庶民はただただ仏を信じて、石塔を寄進したりしたんだよね。そういう普通の人々とは違う、権力者の思いが見えたりして、純粋に観音様をお参りしたのとは違う。確かに、母を思い、妻を思い、家族を思い、家を思い、それゆえに時として非情にならざるをえなかった時代の群像はわかります。でも、それは涅槃とは違う、修羅じゃないかな。(よくわからい言葉を使って訳ありません。)自分は、御朱印とか観光とかじゃない部分でなにか得られたかな。

 それでも、何十回と手を合わせた本堂諸堂、お墓には誠実に向き合っていたつもりだけどね。

 また機会があったらレポートします。

 

 

甲府五山を巡る④ 東光寺

1.大字になっている寺

 東光寺という番地は、三丁目まであるのだから東光寺は大きなお寺なのでしょうね。能成寺も東光寺町にあります。能成寺からは東光寺、長禅寺と徒歩で行くことに決めていました。だから、能成寺の駐車場にこだわっていたのです。

 西に北にと行くと彼方に大きな瓦が見えました。あれがそうじゃないかな、という瓦屋根があります。ところが、同行者はあんな遠くには行きたくないといいます。じゃあやめようという答えは、予想してないから、ただ甘えて言うんだろうけどこのレトリック、うざい。歩きと決めたら歩きます。わかっているくせに。わたしは意地っ張りなんです。

 でも、梅雨のむしむしする昼下がりは結構つらい。実は見定めた瓦屋根は甲斐善光寺で、東光寺はもっと近くだったのですが。

 結構日差しが強くなってきました。帰命院の標識が見えました。帰命院?どこかで聞いたことある名前だな。家に帰って確認すると西郡33観音霊場の阿弥陀寺源空寺の本寺の浄土宗のお寺でした。でも寄らずに進みます。広いお庭の大きな家がありました。お金持ちが住んでいるんだろうなあ。

 歩くこと約20分、法蓋山東光寺に着きました。山門の真ん中で杖をついた仏様がお出迎えです。扁額は「灋(法の古字)蓋山」とあります。読めませんね。

 

 

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門の中央で仏様のお出迎え。

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六地蔵がいっぱい。

 

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説明板は三カ国語の訳付き。

 

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名勝 池泉式鑑賞庭園

 

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仏殿です。

 2.六地蔵、庭園、仏殿

 

 門を入ると一つの石に六地蔵を刻んだものがたくさん。双体のものや単体の仏さんもありますが、圧倒的に六地蔵が多いですね。誰がどんなタイミングで寄進するのだろう。案内板がありました。こちらの仏殿は室町後期の建築で昭和2年に重要文化財に指定されているようです。正面の武田菱をあしらった門は閉ざされているので回り道して進みます。

 と、名勝池泉鑑賞式庭園の看板がありました。鎌倉時代の渡来僧、蘭渓道隆作の県内屈指の庭園だそうですが、有料のようで開園しているのかわからないのでスルーしました。無料の枯山水のエリアは白砂に渦巻きがきちんと描かれていて美しかったです。

 そして仏殿。木造で檜皮葺でしょうか、一層なのですが裳階がついていて二階建てのように見えます。合掌。

 

 

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戸が開いていて中がうかがえました。

  これ、どこだったっけ?お堂の内部なんだけど、仏殿は正面の扉が閉まっていたから違いますよね。隣接する建物だったかな。時々記憶が飛んだり、覚え違いをします。

3.幽閉されるお寺

 

 こちらにも武田氏ゆかりの人が多く葬られていました。

 諏訪頼重武田勝頼のおじいさん。ここに幽閉されて自刃したそうです。子供の頃、武田晴信(信玄)の子がなんで勝頼なんだろうと疑問に思っていましたが、外祖父頼重の頼を取っているのですね。庶子ですから本当は諏訪の領土を与えられて諏訪勝頼として、諏訪家を再興させるぐらいの腹づもりじゃなかったのかな、信玄は。

 武田信義のお墓もあります。こちらは正室三条夫人の長男。嫡子でした。晴信の信をもらっていますね。ところが、謀反の疑いをもたれて幽閉されここで自刃しました。幽閉が多いなあ。信玄と三条夫人の子は長男義信が自刃。次男信親が盲目、三男信之が夭折。それで結局、側室湖衣姫(と小説では呼ばれている)の非嫡出子、信の字をもらわなかった四郎勝頼が後を継いだのですね。

 柳沢家のお墓もあります。柳沢家は花菱紋ですね。徳川綱吉側用人柳沢吉保甲府藩の藩主だったのですね。大河ドラマ元禄太平記」では石坂浩二が演じていました。子の柳沢吉里の代に大和郡山に転封されています。この柳沢家の家老の次男で、柳沢淇園という画家がいますが、寺内にはその絵も所蔵されているようです。淇園の随筆「ひとりね」には、元禄時代甲州弁についての記述があり、とても興味深いです。

 さあ、あとひとつ。最後は長禅寺です。

 

 

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仏心塔とあります。

 

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誰のお墓だっけ?

 

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勝頼のおじいさん

 

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信玄の長男武田信義のお墓。

 

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  鐘楼

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甲府五山を巡る③ 能成寺

1.外食

 

 甲府夢小路のイタリアンで昼食を済ませて午後の一番目は能成寺です。

 コロナ解除後の外食は四度目でした。外食は食べる方も気を遣います。先客がいればなるべく離れた息のかからない席にするとか。お見せの方も、メニューは紙でプリントアウトした使い捨てのものでした。お手ふきも紙の使い捨て、ナプキンも紙。それは以前からかもしれませんが。珍しい西洋野菜のサラダとエスプレッソみたいに濃いアイスコーヒー印象的でした。生のなすが新鮮だと歯ごたえがあり、おいしいのには驚きました。

 以前行った身延町のラーメン屋では四人がけのテーブルを縦長にして遠く離れた二人がけにして、真ん中にアクリル板を置いていました。食べ終えて店を出るとき振り返ると、店員さんが速攻でテーブルを除菌していました。甲府駅北口の立ち食いそば屋さんでは、トッピングはトングを使わず、客が自分の箸で蓋を開けて取り、取り放題だった天かすは、申し出て店員さんに入れてもらうようになっていました。どの飲食店も工夫して頑張っているんだな。

 応援したい気持ちは充分にあるんだけど、やっぱり外食を躊躇する自分がいます。

 

 

 

 

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 2.定林山能成寺

 

 定林寺は甲府五山の中では一番小さなお寺でしょうか。でも、西郡33観音霊場のお寺に比べれば大きい方です。やはり甲斐府中のお寺だなあと思います。まあ、価値は規模の大小ではないですけれど。お隣に誓願寺という浄土宗のわりと大きなお寺があって、保育園を経営しているようです。ここじゃないよなと車をゆっくりと走らせると、武田菱が書かれた石の柱に定林山能成寺とあります。甲府市が立てたのでしょうか丸木風の甲府五山の標識もありました。

 ただ駐車場が見当たらない。石畳の参道が続くだけです。ここは車で入るところではないよな、と思いながら、でもあまり広くない道、路上駐車はできないし、と徒歩で中に入ってみると奥の方に駐車場があるではないですか。申し訳ないけど車で乗り入れました。駐めてみると、別の方から車の乗り入れ道がありました。もっとよく探せばよかった。

 

 

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  車を駐めてから、参道の入り口に戻ってリスタート。始めて通る気持ちで進みます。樹木が多く緑濃い参道です。

 右手に石碑がありました。「宿龍池」と読めます。下に書いてあるのは、28文字の感じだから七言絶句の漢詩でしょう。7字目、14字目、最後が「田、遄、傳」と先韻で押韻されています。龍が潜んだという伝説の池があったようです。

 左手には、北山野道(きたやまのみちと読むんですかね)の案内板と、松尾芭蕉の「名月や池をめぐりて夜もすがら」の句碑があります。芭蕉甲府に来たという話は聞かないから(谷村には来たようです)宿龍池にちなんで立てたのかもしれません。

 若いお坊さんが本堂の方に歩いて行きました。爽やかなあいさつをかけていただきました。副住職さんかな?

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 参道は右に折れ、坂を上がっていきます。紫陽花がきれいです。六地蔵や石仏がぎっしりと並んでいます。坂を上ると本堂がありました。「定林山」の扁額は金色鮮やかで、火灯窓は曲線がダイナミックでユニークです。 合掌。

 境内の庭はよく手入れされています。コンクリートのベンチがあって、ここからも甲府の町がよく見えます。

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3.こんにゃく問答

 

 帰りに面白い石碑を見かけました。○がぽつんと書かれています。なんだろう?よくわからずに帰ってから考えました。そういえば禅宗の掛け軸で一筆書きの円を見たことがあったような・・・調べてみたら、どうもこれは円相ってやつらしいです。悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされるが、その解釈は見る人に任される、と解説されます。そうなんだ。

 禅宗は難しい。道元の「正法眼蔵」はこれが日本語なのかと思うくらい難解だし、五山文学と呼ばれる漢詩文も難しい。不立文字といって教論にとらわれない直観的な悟りを求めたりする。禅問答などは本人達も本当にわかっているのかと思ってしまう。

 そこで思い出したのが、落語の「こんにゃく問答」です。旅の禅僧と和尚さんに化けたこんにゃく屋さんがジェスチャーで問答する話ですが、とんちんかんな解釈が面白い話です。こんにゃく屋さんは値段交渉かと思って反応するのですが、禅僧はそれを仏教の真理だと勝手に解釈して降参してしまうのです。その最初の問答が、胸のあたりで両手の親指と人差し指で輪を作る仕草なのです。「貴公の胸中は如何に。」という意味らしいのですが、○には悟った心のような意味があるみたいです。よくわからない。

 よくわからないことは、わからないと素直にいえる自分でありたい。

 さあ次は東光寺。

 

 

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この丸は?