西郡33観音霊場巡礼日誌  二十四番 秋水(永?)山光昌寺

 1.山号は? 光昌寺は南アルプス市教育委員会でご提供いただいた資料などでは秋水山ですが「甲斐国志」では秋永山です。どちらでしょうか。漢語林では「秋水」には、澄み切った心という意味がありますが、秋永には固有に意味がないようですから秋水かなと思うのですが、誰かに聞かないとわかりません。でも、現在は無住のようです。調べてみると様々なことが語れそうです。語る順序をあれこれ考えましたが、結論として行った順序にレポートするのが能力にあっていると思うので、その通りに報告しましょう。つまらない私見もはさみますが。

 最初に参拝した時もここは迷いました。山門や大きな駐車場がないのですから。結局停めていいのか分からないコンクリートの打った平らな場所に車を置きました。何かの作業所の跡地だと思います。今回もそこに停めました。

2.秋山氏発祥の地 まず伺ったのは「甲斐源氏 秋山家発祥の地」。秋山家の始祖秋山太郎光朝は、武田家の始祖武田太郎信義の弟、加賀美次郎遠光の長男です。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、甲府盆地南西部、秋山郷を拠点とした豪族のようです。

 この辺はいわゆる山つきで、盆地のヘリ、西の背後に丘陵が迫っています。豪族の居館はこういうところにありますよね。峡南地方ですが、波木井氏の居城、波木井城や穴山氏の居城下山城など。武田氏の躑躅が崎館もそうかな。背後に要害山がありますね。

 車を停めたところがちょっと南のほうだったので、脇から入り込むようにアプローチしました。最初来たときはここが光昌寺かなと思って、ずいぶん小さいお寺なんだと思ったのですが、秋山太郎の祖廟でした。振り返ると東から長く参道が続いていました。すぐに目についたのがわりと新しい石碑「甲斐源氏秋山家発祥之地」その奥、正面に祖廟があります。説明版によると中には、加賀美遠光、秋山光朝の座像が安置されているようです。特に加賀美遠光坐像は鎌倉時代の逸品とのこと。「甲斐国志」の秋永山光昌寺の条に「影堂木像二基里人次郎殿太郎殿ト称ス」とあるのがそれでしょう。その左脇には加賀美遠光、秋山光朝とその夫人の墓所があります。同じく「甲斐国志」に「墳塋ノ所ニ五輪石浮図大三小五六列ス皆梵字ヲ刻ムノミ」とあるのがこれかなあ。とするとここも寺領の一部で広く大きなお寺だったのでしょう。

 

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 奥に祖廟のようなものがあります。秋山太郎と奥方のお墓掲示板がありました。秋山氏は云々

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祖廟

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お墓


3.光昌寺です 次に訪ねたのが地続きにその北側、光昌寺です。廃寺感はありませんが、無住のようです。庫裏はありません。「甲斐国志」によると、興昌寺とも書かれるようです。開基は秋山太郎光朝、本尊は地蔵。古くは光朝寺といって何宗だったかもわからなく廃頽していたものを慶長年間(江戸時代初期)に曹洞宗の寺として復興したようです。阿弥陀堂には中尊の阿弥陀仏、脇侍に釈迦、勢至、不動、毘沙門が安置されているとあります。影堂も含めて仏像大尽だったのですね。

 お寺の前には池があって、何かゆえありそうな形だそうですが、崩れて完全な形ではないのわからないけれど一説では日本国形象しているとも。池は左右が広く、中央部が狭いのでそこに橋を渡してその上に寺門を作ったとあります。ちょっと待て!イメージがわかない。中央がくびれた日本地図ってどんなの?「甲斐国志」の執筆者は現地を見て書いたのだから、確かにそうだったのだろうけれど、地誌を編纂するほどの知識人、教養人が伊能図ほどではないにせよ、日本国の大まかな輪郭ぐらいわかっていたと思うけどなあ。よくわかんない。

4.伝説の池 この池には伝説があって、古くから天下国主に変あらんとするときは、山梨の岡神社の山が鳴動して、秋山の池の水が血色になると。それが口碑の和歌に伝わっている。

 山梨や御室の山の鳴るときは秋山の池ちしほなるらん

 笛吹市(旧春日居町鎮目)には山梨岡神社(別に日光権現、山梨明神、山梨権現ともいうらしい)は近くに御室山があって、かの地でもそう伝承されているそうです。一方甲府酒折の宮にも御室山があって、こちらでは「山梨や」を「榊立つ」と置き換えて伝承されているそうです。「甲斐国志」執筆時ですが。どうしてだろう。深いいわれを知りたいなあ。そういえばこれから書くけど北隣、秋山氏の居城は今、熊野権現になっているんですね。権現つながり?光朝は平重盛の娘を側室に迎えたそうで平家ゆかりの熊野権現を尊崇していたらしいです。

 山が鳴るのも怖いが、池が血の色に染まるのはもっと怖いなあ。

 今の光昌寺は周囲は周囲は整地されていてわずかに雑草が生えているだけです。阿弥陀堂も池も名残すらありません。もちろん両隣には、祖廟と熊野権現がありますが、光昌寺に限って言えば、松尾芭蕉の「夏草や兵どもの夢のあと」的な感じです。

 ここで合掌。 

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光昌寺です。

 

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参道には石仏が。

 

5.熊野権現、古城 さて、最後に訪れたのは「熊野権現」。小高い丘の上にあります。それもそのはず、秋山氏の居城だったのですから。要害でなくてはね。案内板によると堀を三段にめぐらし(空堀なのか、水が張ってあったのかはわかりませんが)、東郭、西郭を構えた立派な居館です。私たちはお城というと石垣と天守閣を連想しますが、その手の城は戦国時代の100年くらい?石垣は積まないし、高層建築はないよね。でも、秋山光朝は鎌倉時代初期、日本史資料で見る中世の武家屋敷よりずっとお城的。

 赤い鳥居をくぐり、結構急こう配の石段を登ります。きついけどきれいな登りやすいコンクリートの階段です。登りきると大きな木、狛犬をしつらえた本殿、史跡の案内板、摂社お稲荷さん、月が彩色されているのは二十三夜の月待講関係?いろんなものがあっておもしろい。

 でも一番気持ちいいのは眼下に見下ろす盆地の景色。権力とか権威とかが大っ嫌いな私ですが、なんか、ここから見下ろすと殿様の気分がわからないでもありません。この一帯は自分のものなんだと思うと、戦国大名になって自分の領地の地図を描いていた子供の頃の自分を思い出します。武田信玄にあこがれていました。 

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熊野権現は旧秋山氏の居城でした。

 

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本殿?

 

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お城の見取り図

 

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何の木だろう。

 

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三日月は?

 

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お稲荷さんはよく摂社されるよね。

  

 

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