西郡33観音霊場巡礼日誌 五番 竹隠寺 七番 長沢山千手院

1.見いつけた! 「甲斐国志」で見つからないお寺が一つだけありました。竹隠寺です。「甲斐国志」では、「一○○山○○寺(○○村)」と頭書して説明がつけられているのですが、竹隠寺は見当たらない。資料では「廃寺となり増穂小林郵便局となっている」とあるがこの情報はどこで得たのだろう。ずっとモヤモヤしていました。

 ある時、一覧を見ていておやっと思いました。山号がない霊場って「一番 六角堂」「三十一番 田頭の観音」以外は、六番慶昌院、九番無量寺、十七番普春院、そして竹隠寺・・・慶昌院は現在廃寺になっており、石川靖夫氏の資料では本尊は本山の隆円寺に移されているといいます。二寺とも下今井村にありました。同じ村内の本山末寺の関係です。無量寺、普春院は府内(甲府)の長禅寺の末寺ですが、同じ末寺の古長禅寺に隣接したお寺です。この一帯を支配していたのが大井一族で、その娘で甲斐の国司武田信虎正室となり武田信玄を生んだのが大井の方です。もともと長禅寺と呼ばれていたのが、信玄が甲府に長禅寺を移したことでこちらが古長禅寺と呼ばれることになったのですから本来こちらが本山と呼ばれてもいいのです。どれも大きな寺院に隣接もしくは近いところに存在し、山号をつけるほどではない小さなお寺だったのでしょう。無量寺はそれほど小さくはなかったけれど。とすると、竹隠寺も同じ小林村のお寺の末寺かも。ということで「甲斐国志」を当りなおしました。小林村に補陀山南明寺という寺格が高そうな寺院があります。なぜそう思うのかって?そりゃ解説が長いからです。

 能登の洞谷山栄光寺の末寺だそうで、栄光寺は曹洞宗の高僧、瑩山紹瑾が開基した寺院で正しく大寺院です。南明寺は紹瑾の弟子、明峰素哲が1333(正慶2)年に創建した直系の末寺で、曹洞宗明峰派の有力寺院の一つのようです。

 その南明寺の件(くだり)の後ろから2行目にありました!「宝永寺記ニ寮舎三軒、塔頭二軒、隠居所竹隠寺ト云アリ今皆廃ス」と。南明寺の中にあったのですね。ちょっと整理しましょう。宝永年間は1704~1711年。その時のお寺の記録では竹隠寺という隠居寺があったようです。「甲斐国志」は1814(文化11)年成立ですから、その執筆時である数年前にはなくなっていたようです。そうすると西郡筋33観音霊場が制定されたのは文化年間以前、どのくらい遡れるのでしょうか。一番新しい創建の寺以降ということになるのでしょう。それはちょっとわからない。

 見つかったときは、心の中ではしゃぎました。

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小林郵便局。

2.まずは千手院 巡礼は一回にだいたい二寺めぐるのですが、それぞれに分けてレポートしています。しかし今回は竹隠寺も千手院も廃寺どころか痕跡さえないので一回にまとめていいかなと思ったのですが、本山の南明寺も訪れたので結構ボリュームある回になるかな。まずは千手院。石川靖夫氏の資料ですと、富士川町増穂町の長沢にある雇用促進住宅の東側にあったとありますが、東側には町道が走っており、8メーター道路と呼ばれています。変な名前ですが、道幅が8メートルあったのでしょう。呼ばれるくらいだから出来た当時は広い道幅のイメージがあったのでしょう。もっと狭い道を拡幅したのかもしれません。そうだとしたら廃寺の痕跡も残せないでしょうね。あくまでも想像ですけれど。

 千手院はそれなりのお寺だったようです。山号に長沢山と村名を用いているのですから、この地の代表的な寺院だったのでしょうし、「甲斐国志」でも南明寺の末寺ではありますが、開山は南明寺中興の祖、三世梅林で、それゆえ本山を視篆?するものは必ず先に千手院に寄って梅林の像を拝んでいくそうです。本尊はもちろん千手観音。末寺を3箇持っているみたいです。

 どこを拝んでいいのか分からないから、とりあえず団地の掲示板に向かって合掌。

3.次に竹隠寺 石川氏の資料では 増穂小林郵便局がその跡地と書かれています。でも南明寺の隠居寺としては離れていないかなあ。遠そう。ただ、私の実家のある身延町下山には、臨済宗妙心寺派名刹、南松院というお寺があるのですが、子供の頃、父に南松院の北東、歩けば10分ぐらいでしょうか、天輪寺(てんねんじと呼んでいました。)は火事で焼失し廃寺となったのですが、南松院の隠居寺だったと聞かされた記憶があります。隠居にあれこれ言われるのは煩わしいことだし、ちょっと離れたところに小さな庵を結んで引退してもらうのもありかなとも思います。でも、「甲斐国志」の南明寺の書きぶりは寺域内にある感じですけど。先に、宝永寺記を宝永年間の寺の記録と解釈しましたが、郡内勝山村妙法寺の記録「妙法寺記」(甲斐の国の中世歴史資料として一級です。)のように宝永寺の記録かもしれません。でも山梨に宝永寺というお寺は見当たりません。

4.南明寺に行ってみました このままだと消化不良、南明寺に行ってみることにしました。こちらはUTYテレビ山梨が1980年に開局10周年を記念して選定した甲斐百八霊場の84番です。

 駐車場に降りると、お隣のちっちゃな神社。赤い鳥居のお稲荷さん。でも奉納された鳥居は二つ。伏見稲荷根津神社に比べるとかわいい。

 その横に山門があるのですが、その前にブロックで囲われた門があり扉が閉ざされていました。表札というんでしょうか、向かって右に南明寺、左に蒼龍窟?禅堂と書かれています。案内板には「町指定文化財 南明寺四脚門」とあります。蒼龍とは東の守り神、南西北の朱雀、白虎、玄武とともに四神とよばれています。お寺の東側にあるこの門を守り神としてこう呼んだのでしょうか。江戸時代初期から中期にかけての作だろうということです。

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門の横にお稲荷様。赤い鳥居は二つです。

 

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南明寺四脚門は町指定文化財です。

 

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5.ウイルスの渦中で 門がくぐれませんので横から入ると、門の裏手に出ます。参道の両脇には観音様が並んでいます。見るとへそに当たるあたりにそれぞれ漢字が一字書かれています。「千」「聖」「馬」「如」それぞれ「千手観音」「聖観音」「馬頭観音」「如意輪観音」を表しているのでしょう。参道の南側、如意輪観音の向こうには三月の午後の穏やかに日差しの中、一、二分咲きの桜が 佇んでいます。もう春です。世間では新型コロナウイルス感染症で騒然となったいますが。

 医学や細菌学が発達していなかった明治時代以前の人々は疫病にどのように立ち向かっていったのでしょう。天然痘の患者には赤いものが効果があるとして着物、おもちゃなどを赤くしたとか。迷信っちゃ迷信だけど何かしないではいられなかったのだろうな。でも、そんな迷信に生きていた人たちを僕らは笑ってはいけない。そういうパラダイムの中で生きていたのだから。

 現代に生きる僕らも、科学を信仰する軸足と、科学では説明できないものにどう心で対応するかの軸足の両方が求められているように思います。自分だけのことしか考えなかったり、悪意に満ちた言動をとったり、パニックにおちったりするのは心のありようですよね。

 敬虔に生きようとする、その時、「信仰」の意味が問われるのかなあ。まあ、そんなに生真面目に生きるつもりはないですけれどね。 

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門を裏から

 

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参道の両脇に観音様。「千」「馬」「聖」「如」など頭の一字だけ書いてあります。

 

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早咲きの桜が観音様の向こうに。

6.南明寺散策 山門、観音ざまを拝んで本堂に向かいます。禅宗では本堂ではなく、仏殿というのでしょうか。右手には回廊で連結した庫裏があります。庫裏ではなく僧堂というのでしょうか。 僧堂は切り妻造り、柱や梁がむき出しで、漆喰の壁が白く鮮やかです。仏殿は寄棟づくり、どちらも屋根の高い大きな堂宇です。仏殿の前には四角くくぼんだ石垣があります。空堀でしょうか、それともかつては水を張った堀だったのでしょうか。庭もちんまりとはしていません。

 仏殿の右側は更地みたい、お墓もないなあと思いながら進みます。石垣が続きます。勾配があって奥に行くにしたがって何層かの石垣があり、城跡を本丸に向かっている気分です。この石垣の上にはかつて、寮舎三軒、塔頭(たっちゅう)二軒が建てられて、多くの学僧でにぎわっていたことでしょう。じゃあ竹隠寺は一番奥の天守台みたいなところ?それともやっぱりちょっと離れた、小林郵便局のあたり?興味深いなあ。

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空堀みたい。池があったのかな。

 

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大きな本堂です。

 

 

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お城みたいな石垣が裏手に広がっています。

 

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櫛形山かな